淳仁天皇は藤原仲麻呂の傀儡天皇といわれ、現役の天皇として流罪になった悲劇の天皇です。
ここでは淳仁天皇と、その頃の時代背景についてご紹介します。
淳仁天皇の後ろ盾、藤原仲麻呂
淳仁天皇は天武天皇の孫にあたる正当な天皇家の血筋ですが、幼いころから天皇の後継者争いに巻き込まれていました。
そして24歳の時に藤原氏の意向で当時の皇太子が廃位され、淳仁天皇として即位しました。
淳仁天皇の即位後は、案の定、藤原仲麻呂の政治介入が多くなり、また先帝である孝謙上皇の権力も大きかったこともあり、三つ巴状態にあったとされています。
そこで藤原仲麻呂は軍事力によって孝謙上皇に対抗しようと、クーデターを企てました。
これが藤原仲麻呂の乱、または恵美押勝の乱といいます。
恵美押勝とは、藤原仲麻呂が淳仁天皇から賜った名前です。
恵美押勝の乱(藤原仲麻呂の乱)
藤原仲麻呂は着々と軍を集め、淳仁天皇の兄弟とも謀議を重ねました。
ところが孝謙上皇の元に次々と密告が届き、孝謙上皇も兵を集め皇権を発動して藤原仲麻呂討伐にかかりました。
孝謙上皇は、当時造東大寺司長官だった吉備真備に誅罰を命じ藤原仲麻呂を追い詰めます。
吉備真備は、優秀ながらも藤原仲麻呂のために閑職に追いやられた人物で、高齢ながらも軍学の知識を買われたのです。
激しい戦いの末、藤原仲麻呂は琵琶湖のほとりの古城に籠りましたが、水陸からの激しい攻撃で敗れました。
藤原仲麻呂は圧倒的な力を持った状態から、短期間で転がり落ちるように最期を迎えました。
この乱で藤原仲麻呂の勢力は政界から一掃されました。
そして淳仁天皇は廃位されて、淡路島へ流されました。
淳仁天皇のその後
淳仁天皇は廃位され淡路島に流刑となりましたが、直接乱を起こしたわけではありません、淳仁天皇を慕う者も大勢いました。
淡路島まで行った貴族たちも少なくなかったと伝えられています。
しかし孝謙上皇にしてみれば、淳仁天皇は藤原仲麻呂と結託していたということになり警備を厳しくしました。
そしてその直後、淳仁天皇は亡くなってしまうのです。
この時淳仁天皇は32歳、根拠は定かではありませんが、孝謙天皇の力が働いたのではないかという説もあります。
これより後淳仁天皇は「淡路廃帝」と呼ばれるようになりました、天皇が島流しにされるというのはこれが史上初となります。
淳仁天皇の流刑後、孝謙上皇は称徳天皇として再度即位しました。