第49代光仁天皇は天智天皇の孫で、即位前の「白壁王(しらかべのおきみ)」と呼ばれる時代が長かった人物です。
ここでは光仁天皇の時代と、藤原家との関係についてご紹介します。
光仁天皇の人物像
光仁天皇は実務に長けており、光明皇太后の葬儀や称徳天皇の紀州巡幸などでも大役を果たしました。
第48代称徳天皇は生涯独身で子がいなかったので、称徳天皇の病状が悪化した際には後継者問題が浮上しました。
右大臣の吉備真備は天武天皇の皇子である文室浄三を推薦しましたが、左大臣の藤原永手は白壁王(後の光仁天皇)を推しました。
白壁王は他の藤原氏の支持を集め、中でも藤原百川という人物の暗躍によって光仁天皇として即位しました。
即位の時の年齢はすでに61歳だったと伝えられています。
そして第40代天武天皇以来、100年近く天武天皇系が皇位を継承してきましたが、光仁天皇の即位によって天智天皇系の血統に代わったのです。
その血統が現代の天皇にも引き継がれています。
光仁天皇は穏健な性格で、「奈良麻呂の乱」「仲麻呂の乱」で流罪になった人物たちも解放したといわれています。
藤原百川の思惑とは
白壁王は、自分が天皇になるとはあまり思っていなかったと伝えられていますが、太政大臣の藤原百川には白壁王を即位させる目的がありました。
それは天武天皇系の血筋を崩し、天智天皇の孫にあたる白壁王を天皇にすることでした。
藤原百川らは、天武系の天皇が仏教を重んじすぎて民衆に悪影響があると考え、あえて天智系の白壁王を担ぎ出しました。
仏教を重んじすぎて、道鏡という僧が宮中で権力を持ち天皇の座まで狙うという事件が起こっているのも理由の一つとされています。
光仁天皇は、寺院以外の開墾禁止令を取りやめて、さらに身分の等級や序列によって開墾を制限する制度も廃止しました。
そして道鏡も下野国の薬師寺に追放しました。
その結果、荘園が増えてしまい律令体制の崩壊が始まっていくのです。
藤原百川は、光仁天皇が最も信頼していた臣下とされていて、内外の政務に関する重要事項にには常に関わっていたと伝えられています。
渡来人の血を引く皇太子の誕生
光仁天皇には井上内親王という皇后、そして他戸親王という皇太子がいました。
そして井上内親王が、夫である光仁天皇を呪い殺そうとしているという嫌疑をかけられ、皇后の地位を奪われました。
同時に他戸親王も皇太子位を廃され幽閉され、その地で没しました。
そして高野新笠という人物が光仁天皇の皇后になり、その子山辺親王が皇太子となりました、この人物が後の桓武天皇です。
この背景には藤原百川そして藤原式家の暗躍があったのではないかと伝えられています。
高野新笠とは、百済系渡来人の子孫だったことで、ここで初めて天皇家に渡来人の血が入ったのです。