開化天皇とはどんな人物?開化天皇陵はどこに?

開化天皇は、日本の第9代天皇で、歴史上存在が疑問視されている欠史八代の最後の天皇です。

ここでは開化天皇と開化天皇陵、そしてこのころの御陵(古墳)についてご紹介します。

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欠史八代の最後の天皇

古事記や日本書紀では名前が登場し、系譜はあるものの実績がないことや、在位年数や没年に矛盾があることから、第2代綏靖天皇から開化天皇までの8代の天皇やこの間の時代を欠史八代といいます。

この間の日本が比較的安定していたことによって、特筆すべきことがなく、それによって実績の記載がなかったともいわれていますが、いずれにせよ謎に包まれた時代です。

古事記や日本書紀で欠史八代の天皇の中で、開化天皇に関しての記載が一番長いとされていますが、その大半が系統の説明で占めていて、実績や逸話はほとんどありません。

史料は少ないのですが、欠史八代の天皇陵を考察してみると面白いことがわかります。

初代天皇から第8代孝元天皇のまでの御陵は、奈良県の橿原市周辺に比較的近くに位置しています。

ところが、開化天皇陵は少し離れた今の奈良市にあるのです。

この配置から、欠史八代の天皇が実際に存在し、そして開化天皇の時代に春日地方に進出を始めたという解釈ができるのです。

開化天皇陵について

前述のとおり、開化天皇陵は他の欠史八代の天皇陵と離れており、他の天皇陵とは立地場所が違っているのです。

他の天皇陵は、奈良県橿原市の畝傍山の近くの自然の囲まれた土地にありますが、開化天皇陵は奈良市の市街地、つまり平地にあります。

この後の天皇陵も、また少し離れた場所に位置し、それらはそれぞれの天皇が少しずつ宮を移動して治世していった証拠ともいわれます。

開化天皇陵の参道近くにはビルもあり、市街地の通り沿いにありますが、参道を進むと緑の多い静謐な空気の流れる場所です。

開化天皇陵の特徴と古墳の形の変遷

天皇陵、つまり古墳は時代によって形が変化していきます。

古墳の形は円墳や方墳のような単純な形のものから、前方後円墳などのように凝った形のものまでたくさんの種類があります。

前方後円墳は円形と台形(長方形)を組み合わせた、古墳時代を代表するもので、西日本中心に存在しています。

当時の墓の中で最も高いランクとされ、天皇やそれに次ぐ身分の高い一族の首長が埋葬されたのが前方後円墳などの凝った形の古墳です。

開化天皇の御陵は、父である孝元天皇の御陵からの前方後円墳を受け継ぎ、より大きなものになりました。

そしてこの後前方後円墳の規模はどんどん大きくなり、日本一大きい仁徳天皇陵にまで続いていくのです。

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