第13代成務天皇は、第12代景行天皇の皇子です、そしてかの有名なヤマトタケルとは異母兄弟だったと伝えられています。
ここでは成務天皇とヤマトタケル、そして政務天皇がどういう政治を行ったか、その時代背景などについてご紹介します。
成務天皇とヤマトタケル
ヤマトタケルは父親である代12代景行天皇の命を受け、九州の熊襲征伐に始まり各地を平定したとされる人物です。
代13代成務天皇の時代は欠史八代の後になり、徐々に天皇の実績や時代背景などが垣間見れるようになってきました。
しかし、史料によって系譜も異なり、成務天皇とヤマトタケルは兄弟だったという説から、同一人物だったのではないかという説まで存在します。
またヤマトタケルが他の天皇と同一人物だったという説や、孝元天皇の時代に活躍したとされる武内宿禰とも同一人物だったとの説もあります。
成務天皇の人となり
成務天皇が父親である景行天皇から皇位を継いだ時の逸話があります。
宮中に置いて宴会が催されていたところ、稚足彦(ワカタラシヒコ、成務天皇)は武内宿禰とともに宴会に出席していませんでした。
景行天皇がなぜ宴会に出席しないのかと理由を尋ねたところ、稚足彦は「享楽の日には皆の気が緩んでいるため、自分は垣の外で備えていた」と答えました。
景行天皇はこれをいたく気に入り、その年のうちに稚足彦を皇太子としたと伝えられています。
そのことから推測されるように、成務天皇は軍事や政治に対して真摯に取り組める人物だったと推察されます。
そして12代景行天皇もまた、ヤマトタケル伝説の影であまり実績が明らかにされていませんが、国内平定のために尽力した天皇だったのではないかと考えられます。
成務天皇の実績と時代背景
成務天皇は、父親である景行天皇の全国平定事業を引き継ぎ、国の統治の組織化を少しずつ具体化してきたとされています。
諸国に令して国郡や県邑を定め、それぞれに長を置いて地方行政機構の整備をはかりました。
景行天皇の地方平定を引き継いだ成務天皇の時代は、大和政権による支配を強化し、さらに次の時代へ続けるという役目を担っていたとされます。
成務天皇陵は奈良県奈良市にある前方後円墳で、遺跡名は佐紀石塚山古墳です。
江戸時代に興福寺の僧たちが成務天皇陵の副葬品を盗掘したという話が残っています。
事件が発覚し、連座した16人が伊豆国他に流刑になったという記録が残っていますが、これは歴代天皇の御陵に関しての記録としてはとても珍しく貴重なものです。