孝霊天皇は、古事記や日本書紀に記される第7代天皇です、そしてその皇子がかの有名な桃太郎のモデルだったという説があります。
ここでは孝霊天皇と桃太郎、そしてそのころの時代背景についてご紹介します。
日本昔話の代表、桃太郎の伝説
日本昔話の中でも、桃太郎は最も有名な主人公の一人です。
サルと犬とキジを従えて鬼ヶ島に鬼退治に行き、悪さをする鬼を成敗して平和を取り戻した、という誰もが知っている物語です。
桃太郎の話ができたのは鎌倉時代で、そして主人公のモデルになったのが孝霊天皇の皇子「吉備津彦命(キビツヒコノミコト)」とされています。
なので、孝霊天皇の皇子が桃太郎だったのではなく、孝霊天皇の皇子をモデルとして桃太郎の物語が生まれたと考えられます。
古事記では、孝霊天皇の命により、皇子の吉備津彦は弟と共に吉備へ遠征したと記されています。
そして吉備を治めることになるのですが、当時の吉備には製鉄技術に優れた温羅(うら)という集団がいて治安を乱していました。
吉備の人々は温羅を鬼神と呼び、温羅たちの住居を鬼の城と呼んだそうです。
その温羅を征伐(退治)したことから、桃太郎の物語が生まれたと考えられます。
吉備津彦と弟の吉備平定について
父の孝霊天皇の命により吉備を平定した兄弟、そしてその皇子たちを祀ったのが吉備津神社、吉備津彦神社などです。
当時は平定する場所の前線に祭壇(神社ともいわれる)を設けたと言われています。
ところが吉備地方(今の岡山県)には、古戦場跡で発掘されるべき骨などが出てくることがなく、他の古代の戦場跡からもそれらのものが出てきません。
なので、古代の「平定」というのは、武力ではなく話し合いのようなものが一般的だったのではないかといわれています。
または「平定」の意味が、宗教(祭祀)を統括することだったという説もあります。
桃に見る孝霊天皇の頃の時代背景
桃という植物は非常に歴史が古く、中国の孔子が書いた書物にもすでに桃の名前が出てきています。
ちなみに当時は「桃」の字ではなく毛毛(毛が生えているから)という字でした、それが日本にわたってモモという名になったとの説があります。
孝霊天皇の時代には主に、花を観賞してたようですが、実も食されていたという発見がありました。
2001年に鳥取県の青谷上寺地遺跡のの祭祀跡から、桃の種が23個発見されました。
祭祀場から桃の種が見つかったことで、桃がこの時代には中国の影響を受けて神聖なものとして扱われていたということがわかりました。
また、横穴式石室の入り口に桃を置いた古墳もあり、桃は邪気を払うもの、神聖なものとして扱われていたとみられます。
邪気を払う神聖な桃太郎伝説は、ここから生まれたと考えられます。