第88代後嵯峨天皇からの皇位継承問題が、その後持明院統と大覚寺統に分裂して南北朝の争いに発展しました。
ここでは南朝である大覚寺統と、その初めの人物とされる第90代亀山天皇についてご紹介します。
南北朝の争いの始まり
第88代嵯峨天皇は、自分の息子で満2歳の後深草天皇に譲位して後嵯峨上皇として政治を動かしていました。
しかし後嵯峨天皇は、後深草天皇が幼いころから病弱だったことや17歳で病気になってしまったことを理由に、もう一人の子である亀山天皇に譲位させました。
そしてその次の天皇として亀山天皇の息子を推したことに対して、後深草上皇は異議を唱えました。
幕府の仲介によって、亀山天皇の子(後宇多天皇)の次は後深草天皇の子(伏見天皇)を天皇にするということで一件落着しました。
そしてその後、持明院統と大覚寺統から交互に天皇を擁立するという構図が出来上がるのです。
結果的にこれは朝廷を没落させる原因にもなるのですが、幕府側の陰謀ではなくあくまで朝廷内の内紛であると思われます。
亀山天皇とは
兄である後深草天皇が病弱だったのに比べて、亀山天皇は幼いころから健康で聡明だったと伝えられています。
そのため、父である後嵯峨天皇と皇后の寵愛を一身に受けて育ち、10歳で皇太子となりました。
兄の後深草天皇が病に倒れたことで、後嵯峨天皇の意向で11歳で天皇に即位、この時に後嵯峨天皇は一つの歌を詠んでいます。
「いろいろに 枝を重ねて 咲きにけり 花も我が世も いまさかりかも」
この歌は、後深草天皇への不満と亀山天皇への寵愛を現した歌だとされています。
幕府は亀山天皇の大覚寺統よりも、持明院統と良好な関係だったとされていますが、このころはまだ深刻な確執にはなりませんでした。
亀山天皇は上皇となり、後に出家して法皇となるのですが、出家後もたくさんの女性と関係を持ち、多くの子供をもうけたと伝えられています。
また、琵琶・笛・催楽馬など芸能にも通じていたともいわれています。
亀山天皇が出家した南禅寺
亀山上皇は、京都の南禅寺で出家して法皇となりました。
法名を金剛源と称し、禅宗に帰依したことで、その後公家の間で禅宗が浸透していきました。
南禅寺は京都市左京区にある臨済宗南禅寺派大本山で、日本初の勅願禅寺です。
勅願禅寺とは、天皇・上皇の発願によって国家鎮護・皇室繁栄を祈願して創建された祈願寺です。
かの有名な石川五右衛門が「絶景かな、絶景かな」という名台詞を残したのが、南禅寺山門です。
現在でも湯豆腐や、春には桜秋には紅葉と、京都でも人気のあるお寺の一つとなっています。