鎌倉幕府に対して、後鳥羽上皇が朝廷の権力の復活を目的として起こしたのが承久の乱です。
ここではその承久の乱について、時代背景を含めてご紹介します。
源頼朝の死と承久の乱
源頼朝は、源平の戦いで平氏を滅亡させ、鎌倉に幕府を開き征夷大将軍に就任しました。
当時は、後白河法皇が亡くなって、源頼朝と親しい九条兼実が朝廷で力を持っていたため、幕府と朝廷の関係は良好でした。
しかし源頼朝は、征夷大将軍になってわずか7年で、馬から落ちた時の怪我が元になって亡くなってしまいました。
頼朝の後を継いだのは、18歳の源頼家なのですが、ここで源氏と北条家との確執が顕在化します。
源頼家は頼朝と北条政子との長男で、幼いころから次代将軍としての教育を受けていたのですが、すぐに失脚してしまいその後叔父の北条時政によって暗殺されてしまうのです。
そして後を継いだ源実朝も殺害されてしまい、ここで源氏の正当な血筋が途絶えてしまうのです。
ここのゴタゴタに乗じて立ち上がったのが、後鳥羽上皇でした。
後鳥羽上皇は幕府を討伐しようと兵を挙げました、これが承久の乱の始まりです。
後鳥羽上皇が承久の乱を起こした理由
鎌倉幕府は、各地に守護・地頭を置いて徴税を行っていました。
それまでは荘園からの収入は朝廷に納められていたのですが、この制度によって朝廷に納められる税収が激減しました。
特に大きな荘園を持っていた皇族や貴族には大打撃でした。
幕府の理念は「御恩と奉公」であり、武家たちは幕府のために働いて、土地や一族を幕府が守るというシステムです。
これにより、人々は権威だけを持った朝廷よりも、幕府に仕えたほうが良いと考えたと思われます。
この状態に危機感を持った朝廷や公家たちが、幕府を倒そうと決起したのが承久の乱です。
承久の乱の顛末
文芸にも武芸にも秀でていたとされる後鳥羽上皇は、朝廷の威信を復活させるために、1221年に打倒鎌倉幕府を掲げて挙兵しました。
当時の幕府の将軍は九条兼実の子である九条良経で、まだ幼いことから執権である北条義時が権力を握っていました。
突然の挙兵に驚いて動揺する幕府軍内部は、朝廷の敵となる事を恐れ、どうするか戸惑っていました。
その時、源頼朝の妻である北条政子が立ち上がり御家人たちに檄を飛ばしました。
「源頼朝が平氏を滅ぼし幕府を開いてから、皆は役職や給料も上がり暮らしが楽になったはずだ。その恩を忘れて朝廷側につくのなら、私は止めない」
と北条政子は涙ながらに訴えました。
その訴えによって決意した御家人たちは結束を固め、結果1ヶ月で承久の乱は鎮圧され幕府側の勝利に終わりました。
そして後鳥羽上皇をはじめ3人の上皇は各地に配流となり、関係した公家たちは処罰されたのです。