後堀河天皇の御陵のある泉涌寺 天皇からの信仰の篤い泉涌寺とは?

第86代後堀河天皇は、承久の乱後に即位した天皇です。

ここではその後堀河天皇と、天皇家からの信仰の篤い泉涌寺についてご紹介します。

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承久の乱と後堀河天皇即位の経緯

後堀河天皇の祖父は第80代高倉天皇で、高倉天皇は平清盛が映画の頂点に達していた時代の天皇です。

後鳥羽上皇が起こした承久の乱の後、鎌倉幕府は後鳥羽上皇に繋がる血統を途絶えさせるために仲恭天皇を廃位させて、別の血統の守貞親王に院政を敷いてもらえるように要請します。

そして鎌倉幕府は当時10歳だった後堀河天皇を即位させ、承久の乱の首謀者である後鳥羽上皇・順徳上皇・土御門上皇を各地に配流させました。

そして守貞親王が御高倉院として院政を始めるのですが、天皇の経験がない皇族が院政を敷くのは異例のことでした。

しかしこの時代の政治は幕府主導で、朝廷に対する監視役として六波羅探題が置かれていました。

承久の乱の戦後処理として、後鳥羽上皇側の公家や武士から没収した土地が恩賞として御家人に配られましたが、それが幕府と遠方の西国に多かったので朝廷の動きを監視する必要があったのです。

六波羅探題とは鎌倉幕府の職名の一つで、これまでの京都守護を改組し、京都六波羅の南と北に設置した出先機関です。

探題は執権につぐ重職とされており、朝廷ではなく幕府の直轄機関でした。

後堀河天皇と泉涌寺

後堀河天皇は21歳で皇位を四条天皇に譲って上皇となり、この2年後23歳の若さで亡くなりました。

当時は承久の乱に負けた後鳥羽上皇の怨念によるものだという噂もあったと伝えられています。

後堀河天皇は京都市東山区にある泉涌寺を朝廷の祈願所とし、泉涌寺の境内にある観音寺陵に眠っています。

泉涌寺は東山三十六峯の一つである月輪山の麓にあって、皇室の菩提所となっています。

月輪大師が開山したとされ、当時後鳥羽・順徳上皇、後高倉院そして北条政子も月輪大師から受戒したと伝えられています。

泉涌寺は武家と公家両方から深く帰依され、月輪大師没後も皇室から篤く信仰されました。

後堀河天皇の次に即位した四条天皇崩御の際は泉涌寺で葬儀が執り行われ、陵が造営されました。

その後、安土桃山時代までの諸天皇や江戸時代以降の何名もの天皇の葬儀もここ泉涌寺で営まれました。

元は仙遊寺と称していましたが、大伽藍の完成時に寺の一角から清水が湧き出てきたことによって泉涌寺と名を改めたと伝えられています。

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