第50代桓武天皇は天智天皇の曾孫にあたり、平安時代前期で最も重要な存在だったといえます。
ここでは桓武天皇の様々な実績についてご紹介します。
桓武天皇の二度の遷都
父親である光仁天皇が病で倒れたため、桓武天皇は44歳で即位しました。
しかし即位して間もなく天武天皇の子孫である氷上川継の謀反や、疫病や凶作が相次ぎ、長岡京への遷都を行うことになりました。
しかしこの後も桓武天皇周辺で不幸が続きました、桓武天皇の弟で皇太子の早良親王が廃位されてしまうのです。
それは、寵臣である藤原種継が射殺されるという事件が起こり、それに早良親王が関与されたとされたのです。
そして早良親王は淡路に移送される途中に亡くなったことで、桓武天皇は祟りを恐れるようになりました。
当時は、上に立つ天皇に徳がないから良くないことばかり起こるのだ、とされることが珍しくありませんでした。
そして桓武天皇は長岡京から平安京へと都を遷します、二度目の遷都です。
桓武天皇の蝦夷征伐
蝦夷との戦は桓武天皇即位前から行われていましたが、本格的に蝦夷征伐を行ったのは桓武天皇として即位してからです。
ここで活躍したのが坂上田村麻呂です。
坂上田村麻呂は桓武天皇の補佐役として二回目の討伐で活躍し、三回目の討伐で征夷大将軍に任命されました。
本来は蝦夷征伐は四回計画されていましたが、巨大事業による民衆の苦しみを鑑みて取りやめになったといわれています。
この時代には、軍事と都の工事で民衆が苦しんでいるという背景がありました。
桓武天皇は「健児(こんでい)制」という制度を作りました。
健児制とは、一般庶民から徴兵するのではなく役人の子供など、武芸を得意とする者だけが軍事的仕事をさせる制度です。
この制度は形を変えつつも、後世にまで影響を及ぼしています。
新しい形の仏教保護
桓武天皇は、奈良時代に栄えていたこれまでの仏教勢力と距離を置き、中国(唐)で新しい仏教を学んだ空海(真言宗)や最澄(天台宗)を保護しました。
平安京は唐の影響を強く受けており、平安京自体が唐の都である長安を模して造られたとされています。
また日本書紀に継ぐ歴史書「続日本記」の編纂にも積極的に関るなど、一連の政策を主導しました。
桓武天皇は歳をとってから即位したことから、それまでの官僚としての経験が豊富で、それが即位後の指揮能力に良い影響を与え、後世に残る実績を残したと考えられます。