祖母である持統太上天皇の元で政務を行っていた第42代文武天皇は、14歳の若さで即位しました。
ここでは文武天皇と、後に起こった長屋王の変、そして豪族である藤原氏との関係についてご紹介します。
文武天皇と長屋王
先帝であり文武天皇の祖母である持統天皇の後の皇位継承には、二人の候補がいました。
その二人と、病気がちな草壁皇子と才気煥発な大津皇子でしたが、持統天皇は熟慮の末草壁皇子を後継者に選び、大津皇子に補佐として政治に参加させるようにしました。
そして持統天皇の夫である天武天皇が、政治を皇后(持統天皇)と草壁皇子に託す遺言を残して亡くなりました。
その直後に大津皇子が些細な罪を起こし、それが謀反とされて大津皇子は謀反のかどによって処刑され、しばらくして草壁皇子まで病死してしまいました。
直系の皇子にこだわる持統天皇は、草壁皇子の遺児である軽皇子(後の文武天皇)への将来的な譲位を見越して、自ら即位しました。
そして持統天皇は、14歳になった軽皇子に天皇の座を譲りました。
そして大津皇子・草壁皇子に継ぐ天皇候補、長屋王は、文武天皇の兄である高市皇子の息子で、非常に優秀な人物だったと伝えられています。
長屋王は皇位継承問題に関わることもなく、朝廷内で権力を誇っていた藤原不比等とも良い関係でした。
藤原氏と長屋王
高貴な血筋で優秀だった長屋王も、藤原不比等が亡くなってからは風向きが変わってきました。
藤原不比等の子どもたちの時代になると、長屋王が藤原一族にとって警戒すべき人物になってしまうのです。
藤原氏は、天皇家に娘を嫁がせるなどして皇位を狙っていたのですが、長屋王の息子が皇位継承の有力候補になったあたりから微妙な空気になってきました。
第45代聖武天皇の母親が藤原不比等の娘であったことから、皇室での藤原家の勢力は以前よりも拡大していました。
そして長屋王は聖武天皇即位に関しても不満を持っていたことから、聖武天皇の正当性をめぐって藤原氏と軋轢が生じてくるのです。
長屋王の変とは
727年、聖武天皇と皇后藤原光明子の間に男児が生まれ、生まれてわずか一か月で皇太子になりました。
皇族ではない女性が皇后になるということは当時では異例中の異例でしたが、これは天皇家との結びつきを深めようとする藤原氏の計画でした。
聖武天皇の長屋王に対する信頼は厚かったとされていますが、天皇への道を閉ざされた長屋王と聖武天皇の関係は微妙なものだったと伝えられています。
ところが皇太子は一年で夭折してしまい、ますます藤原氏と長屋王派の対立が深まってしまうのです。
そしてとうとう事件が起こりました、長屋王の変です。
729年、聖武天皇に「長屋王が謀反を企んでいる、皇太子を呪い殺したのも長屋王だ」という密告が入りました。
聖武天皇は直ちに兵を派遣し長屋王の自宅を包囲し、死を悟った長屋王をはじめ妻子共々は、抵抗することなく自害してしまいました。
邪魔者である長屋王を葬った藤原氏(中心となったのは藤原不比等の子供達)は強引に自らの力を強めていったのです。
この長屋王の変は、長屋王は冤罪で、藤原氏の陰謀だったというのが通説になっています。
この変によって、藤原氏の言いなりになって、信頼していた重臣を亡き者にしてしまった聖武天皇も、長屋王とその妻子を手厚く葬ったと伝えられています。