中大兄皇子が一族を引き連れて孝徳天皇から去り、失意のうちに崩御した孝徳天皇の後に即位したのが斉明天皇です。
斉明天皇は第35代天皇だった皇極天皇と同一人物で、同じ天皇が二度即位するのは史上初です。
ここではその第37代斉明天皇の実績についてご紹介します。
重祚した斉明天皇、その背景
重祚とは、一度退位した天皇(君主)が再び天皇として即位することです。
そして斉明天皇(皇極天皇)は重祚だけではなく、もう一つ日本初となる「譲位」をしました。
譲位とは、自分が存命のうちに退位して皇位を譲ることをいいます。
斉明天皇は、第35代皇極天皇時代に第36代孝徳天皇に譲位しているのです。
斉明天皇が重祚した背景として、周りに祭り上げられただけのお飾りの天皇だったという説と、自分の意思でもう一度天皇になって政治をしたかった、という説の両方があります。
また、息子である中大兄皇子に皇位を譲るための動きだったともいわれています。
そしてなぜ皇太子である中大兄皇子が即位しなかったのか?
これには様々な説があり、同母妹との恋が倫理上問題となった説、先代孝徳天皇の遺児である有間皇子が有力な後継者だったためとする説。
そして、中大兄皇子自身が皇太子のまま実権を握りたいと考えていたとする説が一般的です。
斉明天皇の蝦夷討伐と百済救援軍
大化の改新によって、天皇による中央集権国家の基礎が固まってきましたが、まだまだ地方には従わない勢力がいたのです、それが蝦夷でした。
このころの蝦夷とは、現在の東北、北海道の一部のことをいいます。
蝦夷は当時、新羅や高句麗と交易をおこなっていたので、大和朝廷とは仲が良くなかった新羅と蝦夷が結び付くことは、朝廷にとって都合が悪かったのです。
討伐とはいえ、討ちに行くというよりは、朝廷の威光を見せつけて反抗させないようにすることが目的だったとされています。
その証拠に、なびいてきた蝦夷の民が樺太からの賊に困っている時は、樺太まで朝廷軍を派遣させたという記録も残っています。
そしてこの時代に、日本の同盟国である百済が、唐と新羅の連合軍によって滅ぼされてしまうのです。
その直後から百済の遺民たちが、復興を掲げて各地で蜂起し、日本に救援要請をしてきました。
そこで斉明天皇は、百済救援軍の派遣を決定し、自ら九州の筑紫に向かいましたが、斉明天皇自身は遠征の途中で病死してしまいました。