ヤマトタケルは現代でも様々な物語に登場している、歴史上有名な人物のうちの一人です。
そのヤマトタケルは第12代景行天皇の皇子だったといわれており、様々な逸話が残っています。
ヤマトタケルについて
ヤマトタケルは12代景行天皇の子として誕生し、幼名を小碓命(オウスノミコト)といい、実は双子でした。
兄は大碓命(オオウスノミコト)といい、ヤマトタケルことオウスノミコトは、その兄の不遜で暴虐な態度を咎めて討ち取りました。
その行為を景行天皇は疎んじて、ヤマトタケルを九州の熊襲平定に向かわせ、そして見事熊襲征伐を成功させました。
その時、オウスノミコトは女装して熊襲建(クマソタケル)の油断を誘ったともいわれ、オウスノミコトは色白の美少年だったとも伝えられています。
そして熊襲建は自分たちを倒したオウスを称え、今まで最強だと思っていた自分たちの「タケル」という名前をもらってほしいと言い残し、息を引き取りました。
そして、オウスノミコトは建命(ヤマトタケル)と名乗ることにしました、ちなみに「建(タケル)」は勇敢な者という意味です。
その後日本各地を平定し、日本中にヤマトタケルの逸話の残った地名が各地に存在します。
古事記と日本書紀との記述の違いについて
前の項に書いた逸話は古事記に記されたもので、この話が一般的とされていますが、日本書紀では少し趣が異なります。
九州の熊襲が朝貢せずに背いたため、景行天皇は自ら軍を率いて遠征しました。
そして、熊襲の首領であるクマソタケルの二人の娘のうちの上の娘を寵愛して手なずけ、手引をさせて熊襲を討ち取ったとされています。
こうして景行天皇は九州を平定し、大和に凱旋しましたが、その15年後(12年後という説も)に川上梟帥(カワカミノタケル)という熊襲が再び背いたために、ヤマトタケルが登場するのです。
そして、その時に川上梟帥がヤマトタケルに討たれて息絶える前に、オウス(後のヤマトタケル)の強さを称え、「日本武尊」の名を与えたとされています。
同じような話なのですが、なぜ古事記と日本書紀ではこのような差ができてしまったのでしょうか?
記述の違いの原因
これに関しても様々な解釈が成り立ちます。
古事記では、景行天皇はヤマトタケルの乱暴な性質を疎んじて、追い出すように熊襲征伐や各地の征伐に行かせました。
しかし、日本書紀ではそのような記述は全くなく、むしろヤマトタケルが亡くなった時に景行天皇は大いに悲しんだとされています。
そして、ヤマトタケルを偲んで、平定した土地を巡幸に出ているとの記載まであるのです。
このように両書で描かれ方が異なるのは何故なのでしょうか、それにはいくつかの説があります。
日本書紀は天皇の権威を示すことを目的として書かれた部分が大きいため、天皇を狭量の人物として描くわけにはいかなかったという解釈ができます。
さらに日本書紀は海外向けに書かれていたので、大和朝廷の強さと、子を思う慈悲深さを伝えたかったと考えられます。
それに比べて古事記は、日本国内に向けて書かれた書なので、平定したのを天皇ではなくヤマトタケルということにして、地方豪族の恨みを朝廷(天皇)ではない人物へと逸らした可能性があります。