孝元天皇の時代の武内宿禰について

孝元天皇は日本の第8代天皇で、歴史学的には実在しないとされる欠史八代の家の一人です。

そして武内宿禰という人物は孝元天皇の孫(または曾孫)といわれ、古代史の中で活躍している人物です。

ここでは、武内宿禰という人物と、後世に与えた影響をご紹介します。

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欠史八代と孝元天皇

欠史八代とは、第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの時代またはその8人の天皇のことをさします。

在位や年齢の長さが不自然なことなど理由で、歴史的にみて創造性が高いとされていますが、系譜が現存することや年数などを嵩上げしているという説もあるため、全てが虚構ではないという見解もあります。

第8代孝元天皇はそのうちの一人で、実績などはほとんど存在していません。

武内宿禰とは

武内宿禰は、第12代景行天皇から第16代仁徳天皇に仕え、大和朝廷初期に活躍したといわれる、歴史上の忠臣です。

古事記や日本書紀の中で、天皇家の外戚ではありますが、天皇でない人物としては最も活躍が記されている人物でもあります。

そして、武内宿禰は古事記では孝元天皇の孫、日本書紀では曾孫と記されています。

武内宿禰は、第14代仲哀天皇の皇后である神功皇后を助け、新羅に出兵し活躍したと伝えられています。

神功皇后は神がかり的な力を持った巫女のような存在だったといわれ、神託によって新羅征伐を行ったといわれる人物です。

この神功皇后と武内宿禰とは、系譜から遠い親戚だったともいわれ、またずっと共に行動していたことから、恋仲だったのではないかという説もあります。

武内宿禰は、中央豪族でありのちの日本史に登場する、蘇我・葛城・平群・巨勢・紀氏などの祖先といわれています。

そして、100歳以上生きた長寿とも伝えられています。

武内宿禰とヤマトタケル

ヤマトタケルは幼いころから知恵もあり武芸に秀でていて、地方豪族を討伐する人物で、美少年だったとも伝えられています。

様々な日本史の考察の中で、かの有名な日本武尊(ヤマトタケル)は武内宿禰の若き日の姿だという興味深い説があります。

これには欠史八代の8人の天皇の系譜と密接な関係にあり、古事記や日本書紀、そして風土記などに記されているヤマトタケルと武内宿禰の実績に相似点が多いということです。

武内宿禰の武勇伝とヤマトタケルの活躍をリンクさせて、同一人物説があるのですが、古事記や日本書紀とでは記述の相違点も指摘されているので信ぴょう性は薄いものと思われます。

また、ヤマトタケルは第13代成務天皇や第14代仲哀天皇と同一人物だという説もあり、謎を多く後世に残した人物となっています。

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