継体天皇は第26代の天皇です。
継体天皇の即位に関する経緯や、曾孫だった聖徳太子についてご紹介します。
傍系だった継体天皇
一代前の第25代天皇である武烈天皇には、皇位を継承する子がいませんでした。
子だけでなく、大和の国の中には皇位につく資格を持つ皇子が一人もいなかったのです。
そこで大伴金村や物部麁鹿火らが中心となって後継者探しに奔走します。
まず第14代仲哀天皇5世の孫にあたる倭彦王を皇太子として迎えようとしましたが、倭彦王は迎えの馬を見て恐れを抱き逃げ去ってしまいました。
そこで次に白羽の矢を立てられたのが、越前の国(当時は越と呼んだ)にいた第15代応神天皇の子孫である男大迹王でした。
男大迹王も初めは使者に疑いを持ち固辞しましたが、大伴金村らの懇願と、話が嘘でないことを確かめたのちに、承諾して継体天皇として即位しました。
ここで、地方出身で傍系という異例の出自を持つ第26代継体天皇が誕生しました。
大和入りまで20年もかかった謎
古事記では継体天皇の出身地を近江としています。
それは即位前の継体天皇の妃が近江出身者や尾張出身者ばかりだということからなのですが、継体天皇は越(越前)を本拠地として近江や尾張の勢力と結びついていたと考える方が自然だといわれています。
ところが継体天皇は即位後も、大和政権の本拠地である大和にすぐに移らず、筒城宮(今の京田辺市)、弟国宮(今の長岡京市)などの宮を転々とし、即位20年目にしてようやく大和入りを果たしました。
それには、継体天皇の即位を邪魔しようとする豪族たちの妨害があったといわれています。
地方出身ということや20年にわたる彷徨、そして系譜があいまいなことなどの理由で、継体天皇は地方豪族出身で力づくで皇位を奪った簒奪者ではないかとの説もありました。
しかし現在では、「上宮記」という日本書紀よりも古い書物から継体天皇の系譜が全て明らかになった事や、継体天皇の埋葬スタイルに変化がなかったことなど様々な理由で、正当な天皇の血筋だとされています。
継体天皇と聖徳太子
かの有名な聖徳太子は、継体天皇の曾孫にあたります。
第26代継体天皇から第33代推古天皇まで、天皇家は親子やきょうだいで継承してきました。
そしてその推古天皇のもっとも血縁が近い人物が聖徳太子なのです。
推古天皇は40歳で即位し、ずば抜けた才知と人格を持った聖徳太子を皇太子に指名しました。
この時聖徳太子は10代後半だったといわれています。
40歳の推古天皇より聖徳太子の方が長生きすると考えて指名したのですが、実際は30年たっても推古天皇は存命、そして聖徳太子は若くして亡くなってしまったのです。
当時は生前の譲位という概念がなかったので、このようなことが起こりました。
これが聖徳太子に才能がありながらも、天皇になれなかった理由とされています。