第26代天皇である継体天皇は、地方出身という珍しい出自の天皇です。
ここではその継体天皇と、当時の百済や新羅とのかかわりについてご紹介します。
■継体天皇が天皇になった経緯
先帝である第25代武烈天皇は、悪逆非道だったとされる天皇で(そうではなかったという説もあります)、子がいませんでした。
そこで次期天皇を探すべく、大伴金村ら有力豪族が協議し天皇の血筋をたどって候補者を探すことにしました。
当時の天皇家の血を引く者たちは、地方でも「王」を名乗り、政治を行っていたとされています。
そこで越(越前)の第15代応神天皇の5世の孫である、男大迹王を天皇に擁立しようとしました。
継体天皇(男大迹王)は即位する以前から、百済や新羅と親交を深めていたとされていて、その国際性や政治力から天皇に選ばれたとされています。
最初は渋っていた男大迹王も、大伴金村らの懇願により天皇に即位することを承諾しました。
男大迹王は第26代継体天皇となり、そして各地を転々としながら、20年後に大和の国に入りました。
様々な理由で、本当に天皇の血筋なのか、地方豪族が力ずくで皇位を奪ったのではないかと噂されていた時期がありましたが、現在では「上宮記」という古い書物がら応神天皇の血を引く者だと証明されています。
継体天皇と朝鮮半島問題
大和の国に落ち着いた継体天皇は、懸案だった朝鮮半島の問題にとりかかります。
継体天皇の即位をめぐっての動乱の中、朝鮮半島では南部の任那内部が南北に分裂したところに、西の百済と東の新羅が勢力を伸ばしてきました。
そして百済が、任那西部にある四県の割譲を日本に申し出て、継体天皇はそれを承諾しました。
ところがそれが仇となり、任那は日本に対して不信感を強め、新羅側に接近して勢力を伸ばし、日本の朝鮮半島での権利を脅かすようになってきました。
こうした状況の中、継体天皇は新羅遠征を命じましたが、九州北部の豪族である筑紫国造磐井が他の九州の豪族と組んで、物資を乗せた船を奪うなどの妨害行為に及びました。
日本書紀にはこれを「磐井の乱」と記されており、ひそかに謀反の機会をうかがっていた磐井が、新羅と組んで事に及んだとされています。
継体天皇の政治と百済との関係
磐井の乱勃発から一年半後、大和政権は御井の決戦で磐井を破り勝利を収めました。
勢力を盛り返した大和政権は、直接的な地方支配に乗り出し、国の統治制度として、国造制・屯倉制などを導入し全国統一を加速させていきました。
即位の際にその特異な出自から、豪族の反発を受けつつ即位した継体天皇は、その実力で大和政権を立て直したと考えられます。
継体天皇の政治では、百済との交流も注目すべき点です。
継体天皇が即位前にいたのは、越(越前)という日本海に面した土地で、この立地も海外との交流が深まった一つの理由と思われます。
継体天皇は若いころ百済に渡り、後に武寧王となる人物と深い人間関係を結んだという話も伝わっています。
その武寧王が継体天皇に贈ったとされる人物画像鏡が現存しますが、それは「即位前の継体天皇に、武寧王が贈った」とされているのです。
そこに見えるのは、武寧王との長きにわたる親交の深さと思われますし、武寧王の棺が日本にしかない「高野槙」という素材でできていることも興味深い事実です。