孝安天皇は、邪馬台国の女王卑弥呼の義弟だった?!

邪馬台国の女王卑弥呼は日巫女といわれ、何人もの日巫女が存在したといわれています。

ここでは、魏志倭人伝に出てくる卑弥呼と、第6代孝安天皇との関係についてご紹介します。

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孝安天皇の在位は102年?

日本書紀によると、孝安天皇の没年は137歳と記されています。

そして在位は102年、これは歴代天皇の中で最長で真偽のほどが疑われています。

第2代の綏靖天皇から第9代天皇である開化天皇の間は、欠史八代といって実在が疑われている天皇です。

孝安天皇もその一人で、実績などはほとんど伝わっていません。

そしてなぜかこのころの天皇は、長男でない男子が後を継いでいるのも注目すべき点です。

日本書紀や古事記の作者が何らかの意図で創作したのか、古代にはそういう風習があったのかまだ解明されていません。

孝安天皇は卑弥呼の義弟だった

魏志倭人伝には、卑弥呼には義弟がいたと記されていて、それが孝安天皇だったといわれています。

第5代考昭天皇には男子が2人いて、長男と卑弥呼が夫婦だったので孝安天皇が卑弥呼の義弟だったということです。

また、卑弥呼は7代孝霊天皇の皇女だったという説もあります。

魏志倭人伝は中国の史書で、倭国(日本)の歴史が記されています。

そしてここで、日本書紀や古事記に記された天皇家との関りと魏志倭人伝の接点が見られるようになったとされています。

魏の使者が邪馬台国を訪れたのは240年頃とされています、そしてそのころには卑弥呼はかなりの高齢だったと推測されます。

なのでこのころ、実際に政治を行っていたのは、義理の弟の孝安天皇だったと言われています。

孝昭天皇と卑弥呼の二重主権時代

古事記では、孝安天皇と卑弥呼は同じ年に崩御されたとされています。

これは偶然だとしても、実はこのころの時代の政治は、孝安天皇の父である孝昭と卑弥呼が取り仕切っていたという説があります。

それは、考昭天皇の「考昭」というのは「卑弥呼を太陽として、卑弥呼の発する光で輝く天皇」という解釈があるのです。

このころは祭政二重主権といわれ、考昭天皇が政治や軍事権を持ち、卑弥呼が祭事権を持って国を治めていたといわれています。

古代日本では、卑弥呼のような不思議な力を持つ(といわれる)人間に従うという風習がありましたし、天皇の政治だけでは補えない部分を担ったのだとも考えられます。

もちろんこれは一つの説です、考古学者の中でも様々な説があります。

孝安天皇は欠史八代の天皇の中でも特に、卑弥呼の義弟だったという以外ほとんど実績や逸話がありません。

しかし孝安天皇の墓である孝安天皇陵は、実際に奈良県の御所市玉手という場所の小高い丘の上に存在します。

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