王仁(わに)は、第15代応神天皇の時代に百済から日本に、千字文と論語(儒教)を伝えた人物とされています。
ここでは王仁という人物と、王仁が日本に渡来した時代背景をご紹介します。
王仁という人物について
王仁は応神天皇の時代に、論語と千字文を携えて日本に渡来し、日本文化の原点ともいえる漢字を伝えたといわれています。
日本書紀では王仁、古事記では和邇吉師(わにきし)と記載されており、中国から百済(今の朝鮮半島の一部)に渡来した中国人ともいわれています。
日本書紀では、王仁は百済からの使者の推薦で渡来し、第15代応神天皇の皇子である莵道稚郎子(ウジノワキイラツコ)の師になりました。
日本の文化を育み発展させた人物として現代でも日韓両国で王仁の催し物が開催されていますが、この時代に百済から渡来したたくさんの学者たちの実績を合わせて一人の人物の存在にされたという説もあります。
王仁をはじめとする渡来人たちの業績
応神天皇の即位後、渡来人たちが新しい文化や技術とともに大挙して来日したと伝えられています。
初期の代表的な渡来人が、弓月君(ゆづきのきみ)、阿知使主(あちのおみ)、王仁(わに)たちです。
後の豪族有力秦氏の祖となった弓月君は養蚕や機織り技術をもたらし、その後秦氏は全国に広く分布して開墾事業などに従事し、産業の発展に寄与したといわれています。
そして王仁は西文(かわちのふみ)氏の祖となり、後の西文氏は朝廷の文官となり、主に文筆に従事しました。
また西文氏は、朝廷で計算や記録も担当したといわれています。
阿知使主を祖とする東漢氏は、手工業や武器生産に関わり、軍事氏族的性格が強いと伝えられています。
応神天皇、王仁の墓
応神天皇は第15代天皇で、神功皇后の子どもにあたります。
神功皇后が夫である仲哀天皇を弑した時にはすでに神功皇后の胎内におり、仲哀天皇の崩御の後に産まれました。
異母兄に命を狙われ、それに勝利したという記述もあります。
一般に応神天皇陵といわれているのは、大阪府羽曳野市にある誉田山古墳(こんだやまこふん)です。
この古墳は仁徳天皇陵に次いで、日本で二番目に大きい古墳といわれています。
近くには応神天皇をまつる誉田八幡宮という神社があり、これは日本最古の八幡宮とされています。
王仁の墓は大阪府枚方にあり、王仁の生誕地とされる韓国の霊岩郡と20年以上交流に力を入れてきており、日韓交流の拠点の一つとなっています。