第57代陽成天皇は、先帝の清和天皇が退位したためわずか9歳で即位しました。
ここではこの時代の背景や、在原業平ら有名な歌人についてご紹介します。
陽成天皇、出自の謎
陽成天皇の即位が9歳だったということもあって、政治の実権は陽成天皇の両親と叔父である藤原基経が握っていました。
当時の藤原基経は摂政という地位で、年若く病弱だった陽成天皇に代わり政治を行っていました。
陽成天皇の父は清和天皇、母は藤原高子、そして摂政である藤原基経と藤原高子はきょうだいでしたが、この二人は不仲でした。
そして藤原基経は、高子・陽成天皇の母子を排除して、自分の意向に沿う光孝天皇を即位させようと画策するのです。
陽成天皇は乱行が目立ち、暴君だったと伝えられていますが、これは藤原基経側がそういう噂を流布することにより、天皇を辞めさせようとした策略だった、あるいは藤原基経を正当化させるためにねつ造された噂なのではないかといわれています。
いずれにせよ、陽成天皇は17歳という若さで退位、その後60年も間上皇の地位であり続けました。
陽成天皇の母の高子は美しく恋多き女性だったと伝えられていて、伊勢物語などで在原業平と駆け落ちした話が書かれています。
また在原業平も美貌で、色恋沙汰が絶えなかったといわれています。
なので、陽成天皇は在原業平と高子の子供だったのではないかという噂も伝えられています。
小倉百人一首に名を残す陽成天皇と在原業平
百人一首とは、飛鳥時代から鎌倉時代初期までの和歌を集めた秀歌撰で、一般的には藤原定家が選んだ「小倉百人一首」のことをを指します。
この小倉百人一首には、陽成天皇と在原業平の歌も残っています。
陽成天皇は政治では目に見えた実績がなかったものの、退位後には何度も歌合せを催してるように、歌の才能があったとされています。
在原業平は、皇室の血は引いているものの、長い間中枢に入っていなかった人物で「基礎学力は乏しいが、素晴らしい歌を詠む」と評されています。
また美貌で奔放な性格の持ち主で、高貴な女性たちとの恋の噂が絶えない、高貴でありながら反体制の貴公子として様々な物語のモデルになっています。
伊勢物語のモデルという説もありますが、伊勢物語は作者不詳であり、短編の歌物語集です。
在原業平と思われる人物を主人公として、様々な歌から短編物語を作って伊勢物語としたのではないかと思われます。
在原業平の詠む歌は、後世に残る素晴らしい作品がたくさんあり、三十六歌仙の一人にも選ばれています。