聖武天皇がした仏教文化の発展とそのために建立したものは?

第45代聖武天皇は、仏教に深く帰依したといわれています。

ここでは聖武天皇時代の仏教文化についてご紹介します。

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聖武天皇と光明皇后

聖武天皇が即位したころ、各地で伝染病(天然痘)が大流行し、多くの人々が病に倒れ亡くなりました。

また天候不順によって飢饉が起こり食糧不足も深刻になり、地震もあったことなどで、国内は危機的状況になってしまいます。

聖武天皇は、それらの災いから逃れるように次々に都を遷しましたが、最後には平城京に戻ってきました。

これには皇后である光明皇后の影響も大きかったと伝えられています。

光明皇后の出自は、当時宮中で勢力を伸ばしていた藤原氏、民間から皇后になった初めての人物ですが、聖武天皇とは仲睦まじかったといわれています。

光明皇后の兄4人も天然痘で亡くなってしまったこともあって、藤原氏が以前謀殺した長屋王の呪いではないかとも考えたのではないかと推測されます。

聖武天皇は気が弱く人の意見に惑わされやすい性格だったと伝えられており、そこを光明皇后が補ったとの説が有力です。

仏教に深く帰依した聖武天皇

聖武天皇は仏教によって、伝染病を鎮め社会の不安をなくそうとしました。

現代のように病気や天災の科学的根拠など分からない時代でしたから、祈ることくらいしか方法が見つからなかったのは当然だと考えられます。

聖武天皇は、全国に国分寺や国分尼寺を建てて、病気や天災を鎮めようとしたのです。

そして平城京に東大寺を建てて、東大寺盧舎那仏、、いわゆる奈良の大仏を建立しました。

奈良の大仏を建立した第一の目的は、病気や天災を鎮めることにありましたが、他にもあります。

当時の農民は度重なる天災のおかげで不作が続き、食糧不足が深刻な状態でした。

それに加えて税金として、作物をほとんど持っていかれるという厳しい環境でしたので、農民の不満がたまっていました。

希望を持てない民衆が頼るのが宗教であり、高さ16mの大仏は拝む対象としてとても大きな価値のあるものだったと思われます。

奈良の大仏について

大仏の建立には9年の歳月を費やし、延べ260万人が工事に関わったといわれ、当時の技術ではかなり困難で危険を伴いました。

また「東大寺要録」を元に試算すると、大仏殿と大仏の建造費は、現在の価格にするとおよそ4700億円と算出されました。

メッキ用の水銀で中毒死するなど、犠牲になった人々の数も少なくありませんでしたが、それでも聖武天皇は大仏を作る価値があると考えたと伝えられています。

創建時には金メッキが施され、まばゆいばかりに輝いていたと記録に残っています。

東大寺の奈良の大仏は、それ自体重要な国宝に指定されていますが、また東大寺境内や大仏殿の隣からも、たくさんの歴史的価値のある資料も発掘されました。

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