仲哀天皇謎の崩御と神功皇后悪女伝説にせまる

国内に小国ができて、地方制度の整備がなされてきた時代の第14代仲哀天皇とその妃である神功皇后。

ここでは仲哀天皇の謎の崩御、そして神功皇后との関りや時代背景についてご紹介します。

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第14代仲哀天皇と神功皇后について

仲哀天皇は、第12代景行天皇の子とされるヤマトタケルの第二子で、第13代の成務天皇に世継ぎがいなかったので、太子となりました。

白鳥になって天に上ったとされた父ヤマトタケルを偲んで、陵に全国から白鳥を献上させたとの逸話も残っています。

また、仲哀天皇は父と同じく、大和政権に対抗する熊襲征伐を敢行します。

仲哀天皇の妃である神功皇后は、巫女としての役割を担って、神からの声を天皇をはじめ皆に伝えていました。

熊襲征伐の会議を開いた時、神功皇后が神がかりとなり、荒廃した熊襲の地ではなく、海の向こうの豊かな新羅を従えなさい、という神託が下りました。

しかし仲哀天皇は、小高い丘に登り海の向こうを見渡しましたが、そのような国は見えない、どの神が私をだまそうとしているのか?と神託を信じませんでした。

仲哀天皇の崩御と神功皇后

仲哀天皇は、神託を信じず神功皇后に疑念を抱きました。

ところが神功皇后は、私(神)を信じられないのなら国を得ることができないばかりか、汝は黄泉の国に行くことになる」と激怒しました。

それでも仲哀天皇は熊襲討伐を強行しましたが、失敗して在位9年ほどで崩御してしまいます。

日本書紀では、仲哀天皇の崩御は病気によると記されていますが、古事記ではかなり不自然な逝去と記載されています。

そして仲哀天皇の崩御を神功皇后は神託に背いた穢れだとして、呪いを恐れて大々的なお祓いをしているのです。

謎に包まれた仲哀天皇の崩御、そして葬儀の行い方、そして自分のお腹に宿っている子供が国を治めるべきだと主張する神功皇后。

これらの事象を考え合わせて、仲哀天皇の崩御は神功皇后の策略ではないかという説が有力なのが理解できます。

仲哀天皇崩御後の神功皇后

この後、神功皇后は新羅に兵を出し討伐しました。

そして筑紫で子供を生み、正当な天皇後継者を差し置いてその子に皇位を継承させるのです。

これは仲哀天皇の崩御が穢れだとして、胎内の子が皇位を継承するのが正しいという、神功皇后に降りた神託によるものです。

このころの日本は神を絶対的なものとして崇めていました、そして民衆の心を一番動かせるのがご神託だったのです。

これをうまく利用して民衆の心をつかみ、自分の子どもを天皇として即位させた神功皇后にはたくさんの逸話が残っています。

その逸話のほとんどが国盗りや地位や名誉への野望になっていることから、神功皇后が猛女・悪女だったという話が現代に伝えられているのです。

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