第60代天皇醍醐天皇と第62代村上天皇の治世を「延喜・天暦の治」といい、摂政を置かず天皇自ら政治を動かす親政が行われていました。
ここでは、延喜・天暦の治と親政についてご紹介します。
天皇が自ら政治に臨んだ時代
親政とは、摂政関白に頼らず天皇自身が自ら政治を行うことです。
第60代天皇醍醐天皇と第62代村上天皇の間には、第61代朱雀天皇がいます。
朱雀天皇は即位時わずか8歳でしたので、藤原忠平が摂政となり政治を補佐しました。
そして藤原忠平は引き続き、村上天皇の下で数年間関白を務めました。
醍醐天皇の親政を延喜の治、村上天皇の親政を天暦の治と呼びます。
厳密に言えば醍醐天皇は、藤原時平と菅原道真を左右大臣とし大きな助力を得ていますし、村上天皇も初めの三年ほど外叔父の藤原忠平が関白を務めましたが、少なくとも安定した時代であったので後に「延喜・天暦の治」と呼ばれるようになりました。
この天皇親政が行われた時代は、王朝政治・文化の最盛期となり、後世の人々から聖代視されます。
実際にこの時代は律令国家から王朝国家平行する過渡期で、かねてからの改革が展開された時期です。
そしてこれらの改革は、天皇の親政によるものというよりは、今までの摂関政治(摂政や関白がいた時代)が基礎を作ったと考えられます。
それでも天皇が自ら世を収めれば平和になるという通念が浸透して、後世に天皇の権威が失墜した時に、延喜・天暦の治が理想の時代だと聖視されるようになるのです。
村上天皇の政治
村上天皇は18歳で即位し、そのころはまだ補佐役として藤原忠平が関白を務めましたが、忠平が亡くなった後は新たに摂関を置かずに親政を行います。
とはいえ、摂関家である藤原実頼・師輔兄弟が政治の主導権を握り、また存命中の朱雀上皇もいたことから、完全な親政ではありませんでした。
村上天皇は、政治家というよりも文化人で、文化面での功績が大きいといえます。
村上天皇は「皇室は学問や文化を重視していれば、政敵や摂関家とも良好な関係を築ける」という方針を示しました。
「大鏡」という藤原道長を中心とした藤原家の栄華が描かれた書物があります。
そこに、村上天皇は文化的な関心も強かったけれど、多くの女性を後宮に入れたと書かれています。
そして村上天皇の皇后である安子は、村上天皇の下に通う女性に嫉妬心を抱き、土器の欠片を投げつけたという情熱的な女性だったと記されています。
しかし、安子皇后は情愛が深く政治にも関心を寄せ、夫である村上天皇とともに善政を敷いたとも伝えられています。