第78代二条天皇の時代に起きた平治の乱は、武家である平家の台頭に大きく関わった大乱です。
ここでは平治の乱と二条天皇、そしてその時代の流れについてご紹介します。
後白河天皇と二条天皇
二条天皇は後白河天皇の第一皇子で、当時院政を敷いていた鳥羽法皇の下で育てられました。
後の二条天皇は幼いころから優れた人物と評され、鳥羽法皇も二条天皇を可愛がり天皇候補として期待していました。
しかし、近衛天皇崩御の後、父である後白河天皇を飛び越えて13歳の二条天皇を即位させることはできませんでした。
鳥羽法皇は後白河天皇を中継ぎ天皇として、二条天皇を即位させます。
後白河天皇は天皇になって政治を執るよりも、流行の歌舞曲にのめりこんでおり、生真面目で賢い二条天皇に天皇の資質を見出したと思われます。
二条天皇は自ら政治を行う天皇親政を目指し、父である後白河天皇と終生対立関係にあったといわれています。
保元・平治の乱と藤原信西
平治の乱の前に起こった保元の乱の後に主導権を握ったのは、後白河天皇方の藤原信西でした。
信西の妻が後白河天皇の乳母だったため、後白河天皇にとっては信西は義父のようなものだったのです。
信西は、北面の武士で最大兵力の平清盛を優遇し、それは平清盛にとっても朝廷で力を得ることは大きなメリットでした。
一方で、保元の乱で活躍した源義朝は、平清盛と恩賞に差がついていると不満を感じていました。
その恩恵を仕切っていたのが藤原信西で、信西は義朝の娘との婚儀を断っておきながら、平清盛の娘と信西の息子を結婚させたことでも源氏の怒りを増長させました。
もう一人信西に恨みを抱いていた人物が藤原信頼で、信頼は以前自分の出世を信西に邪魔された経緯がありました。
源義朝と藤原信頼は手を組んで、平清盛が熊野詣に行っている間にクーデターを起こし、信西を討ってしまうのです。
そのまま二条天皇と上皇を幽閉し人質にしましたが、熊野から帰ってきた平清盛に奪われてしまし、立場が逆転してしまいます。
兵をあげた平清盛は、源氏の源頼政まで寝返らせ、藤原信頼と源義朝は斬首、源義朝の息子である源頼朝は伊豆に流刑になりました。
頼朝は本来断罪されるべき存在でしたが、平清盛の継母の池禅尼の嘆願などにより、死刑は免れたといわれています。
後に征夷大将軍となった源頼朝は、ここでは平清盛によって助命されているのです。
この平治の乱によって源氏を破った平氏は、この後大きく力をつけていくことになり「平家にあらずんばひとにあらず」というほどの隆盛を極めます。
しかしその平氏の栄華を止めるのが、この時に許した源頼朝や源義経らだということが、歴史の興味深いところだといえます。