後一条天皇に嫁いだ藤原威子の血筋と生涯とは

第68代後一条天皇は、母は一条天皇の皇后であり藤原道長の娘の彰子という、藤原道長全盛の時代の天皇です。

ここでは後一条天皇と、その皇后である威子についてご紹介します。

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藤原道長全盛時代

摂政である藤原道長は、孫の後一条天皇が即位した時に有名な歌を詠みます。

「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」

この世は自分のためにあるもの、この栄華は満月のように欠けることはない、そういう意味です。

まさにこの時代は藤原道長の全盛期で、天皇を初めとして朝廷の中枢は藤原道長の親族で占めていました。

そして道長は後一条天皇に娘である藤原威子を嫁がせ、その後も第69代後朱雀天皇、第70代後冷泉天皇とも外戚関係を持続させるのです。

後一条天皇と皇后藤原威子

後一条天皇は11歳で元服し威子を皇后に迎えたのですが、その時藤原威子は20歳でした。

威子にとっては甥にあたる後一条天皇に入内したことになり、また後一条天皇が生まれた時には、威子は後一条天皇を抱いて可愛がっていました。

そのようないきさつもあり、入内の際には威子は歳の差を恥じ、またお互い照れていたとされていますが、夫婦仲は悪くなかったと伝えられています。

この時代では珍しく、後一条天皇は威子以外には他の妃を持たず、二人の女児に恵まれました。

男児が生まれなかったことに失望した人々に対して、後一条天皇は「女帝が立ったこともあるのだから」と威子を庇ったという逸話も残っています。

しかしとうとう世継ぎの皇子には恵まれず、後一条天皇は29歳で崩御しました。

「栄花物語」によると、飲水と痩身の症状があったと記されていることから、おそらく糖尿病であったのではないかと考えられます。

そして他の史書によると、天皇の遺詔によって、後一条天皇の喪を隠して弟の敦良親王への譲位の儀を行い、後一条天皇は上皇として葬儀が行われたとされています。

そしてその半年後、後を追うように威子も疱瘡で亡くなりました。

後一条天皇と威子の二人の皇女

後一条天皇崩御の後は、弟である第69代後朱雀天皇が皇位を継承しました。

威子の遺児である幼い内親王はその後、祖母であり叔母でもある藤原彰子と、叔父である藤原頼道が後見人となりました。

後に、後一条天皇と威子の間に生まれた第一皇女の章子内親王は後冷泉天皇に、第二皇女の馨子内親王は後三条天皇に嫁ぎました。

そして後一条天皇と威子の直接の血筋は、男子が産まれなかったことでここで途絶えてしまいました。

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