嵯峨天皇の側近藤原冬嗣と空海 二人の人物像について

嵯峨天皇の時代に活躍した藤原冬嗣は、後の藤原氏の繁栄に貢献した人物です。

嵯峨天皇、藤原冬嗣、そしてこの時代に仏教を広めた空海について、時代背景とともにご紹介します。

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嵯峨天皇と薬子の乱

嵯峨天皇に譲位して平城京に去った平城上皇は、寵愛していた側近の藤原薬子の後押しもあって、都を平城京に遷すという詔を発し、造営使を派遣するように嵯峨天皇の元に命令が下りました。

当時は天皇も上皇(天皇を譲った後上皇となる)も勅命を発することができ、それが争いの発端になっていた事例が過去にもありました。

そして嵯峨天皇は、坂上田村麻呂らを平城京へ派遣しましたが、それは平城上皇の要請に答えるのではなく、あくまで平城京の様子を探るためでした。

不穏な空気を感じた平城上皇は逃走しようとしますが、関所を封鎖され逃げることができなくなり降伏して出家しました。

これが教科書にも載っている「薬子の変」ですが、この事件が歴史的に大きく取り上げられる理由は、この後の嵯峨天皇の政策にあります。

この政策には嵯峨天皇の側近である藤原冬嗣も深く関わっているのです。

優秀な官僚だった藤原冬嗣

薬子の乱の際に嵯峨天皇は、普通の官僚以外に天皇の機密を守り守護する目的の「蔵人所」を作り、その「蔵人頭」に藤原冬嗣を任命しました。

藤原冬嗣はとても賢く寛容な人物だったといわれており、嵯峨天皇がいかに藤原冬嗣に信頼を置いていたかよくわかります。

藤原冬嗣は官僚としても非常に有能で、奈良時代に作られた法律を平安時代に対応させた「弘仁格式」という法典の整備に貢献をしました。

また、日本後紀という政府の公認歴史書の編纂にも尽力しました。

薬子の乱が大きく取り上げられているのは、薬子の乱の後、嵯峨天皇と藤原冬嗣による様々な政治改革の実績が大きかったからだと思われます。

そして藤原冬嗣のもう一つの功績は、これまで四つの勢力に分裂していた藤原家を纏めようと努めたことです。

天皇家内部の争いごとを目の当たりにして、藤原家は結束しなければならないと感じたのではないかとされています。

日本仏教の変革、空海

藤原冬嗣が官僚として東奔西走していたこの時代の特徴として、日本の仏教が大きく変わってきたことがあげられます。

その仏教界の変革に大きく関わったのが、空海と最澄という人物です。

当時の仏教は、本来の信仰よりも、政治に介入するなどの腐敗が進んできていました。

そんな日本の仏教に改革をもたらしたのが空海と最澄で、二人とも唐よりこの思想を持ち帰りました。

旧仏教勢力の反発もあり、空海の真言宗や最澄の天台宗の普及は簡単なものではありませんでしたが、桓武天皇そして嵯峨天皇と藤原冬嗣の尽力のおかげで新しい仏教を普及させることができました。

特に空海の真言宗が重要視され、藤原冬嗣の発願によって建立された藤次寺という寺も現存しています。

空海に関しては様々な逸話が残っていますが、僧侶としてのみならず、治水や建築などの面でも大きな功績を残したと伝えられています。

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