第54代仁明天皇は、第52代嵯峨天皇と橘嘉智子の子で、承和の変という藤原氏に絡む事件は、仁明天皇の時代に起こりました。
ここでは仁明天皇と承和の変、そして仁明天皇陵をご紹介します。
藤原良房と承和の変
仁明天皇の先帝である第53代淳和天皇が一番信頼して蔵人頭を任じたのは、藤原冬嗣という人物です。
そして仁明天皇が即位すると、藤原冬嗣の次男である藤原良房が仁明天皇の蔵人頭となりました。
藤原冬嗣・藤原良房は藤原北家の家系であり、仁明天皇の時代に起きた他氏排斥事件は藤原良房によって引き起こされました。
藤原良房は有能な側近でしたが、妹の順子を仁明天皇に嫁がせ、着々と藤原北家の地盤を固めてきたのです。
当初仁明天皇の皇太子は、淳和天皇と仁明天皇の妹の子の恒貞親王でしたが、淳和上皇と嵯峨上皇が亡くなった後、恒貞親王の後ろ盾は皇太子に仕えていた伴建岑と橘逸勢だけになってしまいました。
伴建岑と橘逸勢はその状況に危機感を持ち、恒貞親王とともに東国に移ることを画策しましたが、それが藤原良房に密告するものがいました。
そして藤原良房によって伴建岑と橘逸勢、そしてそれに関わったほとんどの人物を処刑、左遷し、恒貞親王は廃位されました。
これが承和の変で、この事件によって藤原良房は大納言に昇進し、ついに人臣初の摂政・太政大臣にまでのぼりつめました。
そしてそれが藤原北家、そして後の藤原氏繁栄への道に繋がりました。
仁明天皇時代と仁明天皇陵
承和の変で処刑された橘逸勢は、嵯峨天皇・空海とともに三筆といわれるくらいの筆のたつ人物です。
空海が唐に渡って密教をわが国に輸入した時に、橘逸勢は空海と共に行動をしたといわれています。
また百人一首で有名な小野小町も、この時代の人物です。
小野小町は仁明天皇に、更衣として仕えました。
更衣とは、天皇の衣替えに奉仕する女官のことで、小野小町は承和の変のころにはまだ幼い少女でした。
仁明天皇は幼いころから病弱で、薬の知識に長けていたとされています。
「続日本後紀」に、仁明天皇は崩御の一か月くらい前から病が重くなり、自分の姿を見られないように御簾で隠して議論を聞いていたと伝えられています。
最期は宮中の清涼殿で倒れて崩御されたとされていますが、藤原家によって暗殺されたのではないかという説も一部には残っています。
仁明天皇陵は深草陵とも呼ばれ、現在の京都市伏見区の静かな場所にあります。