宇多天皇の側近だった菅原道真、左遷そして怨霊伝説とは

一度臣籍に降りて皇籍に戻り即位した第59代宇多天皇、藤原基経が宮中で摂政として政治を握っていた時代です。

ここでは宇多天皇に信頼された、学問の神様として有名な菅原道真についてご紹介します。

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宇多天皇と藤原氏の確執

宇多天皇は、先帝である光孝天皇と藤原基経の後押しもあり、一度臣籍から降りて源氏姓を名乗っていましたが、皇籍に戻り即位しました。

宇多天皇が即位したころから、先帝である光孝天皇の関白であった藤原基経との関係にひびが入ってきました。

宇多天皇は勝手に政治を動かす藤原基経が面白くなく、また藤原基経にしても今までよりも口出ししにくい雰囲気になっていたと思われます。

かといって宇多天皇も、藤原基経をいきなり馘首するわけにはいかず、阿衡(あこう)として働いてくれと要請します。

阿衡とは摂政・関白の異称ですが、それよりも、実務をしない名誉職的な意味合いが強かったのです。

その文言に基経が激怒し、政務を拒み自宅へ籠り半年も政務が滞る事態になってしまいました。

そして宇多天皇は、その文を基経に持って行った広相を処分(解雇)することで解決しようとしますが、基経はそれでは納得しませんでした。

そこで仲介役として菅原道真が藤原基経を説得し、基経は職務に戻ったとされています。

これを「阿衡事件」といい、宇多天皇は菅原道真に感謝しその才能を認め、藤原基経が亡くなった後は菅原道真を重用するようになりました。

中流の貴族だった菅原道真

菅原道真は、わずか5歳で和歌を詠むなど、幼いころから神童といわれていました。

曾祖父の時代に、学問により朝廷に仕える中流の貴族だったので、宮中での出世はあまり望めませんでしたが、18歳で文章生という朝廷に学問によって使える文章博士の候補生となりました。

そして朝廷の文章博士となり、以後宇多天皇の信任を受けて要職を歴任することになります。

それまで宮中で権勢をふるっていた藤原基経亡き後、有力者がまだいなかった藤原氏を牽制していたのも菅原道真です。

そして菅原道真は、公卿(司法・立法・行政を司る最高幹部)にまで官位をあげました。

しかし、宇多天皇の時代が終わりに近づくと、藤原時平という人物が台頭してきて、菅原道真と藤原時平がツートップとなる体制になり、宇多天皇から醍醐天皇に譲位された後もその体制が続きました。

そのころから、宮中での菅原道真に対する嫉妬や藤原氏の反発が表面化してきました。

そしてついに讒言によって、大宰員外帥に左遷されてしまうのです。

大宰員外帥とは、当時海外への門戸であった九州の大宰府でのトップの職なのですが、辺境の土地、しかも現在の地位からすれば完全に左遷だったのです。

宇多上皇は醍醐天皇に会ってとりなそうとしたのですが、失敗に終わってしまいました。

無念の左遷ではありましたが菅原道真は、大宰府で身の潔白と国家の平安を祈りつつ生涯を閉じたと伝えられています。

その菅原道真が怨霊となり、左遷の首謀者や醍醐天皇の皇太子までも次々と呪殺したという噂が流れ、醍醐天皇自身まで病に倒れてしまいました。

菅原道真は優秀すぎたため周りの嫉妬を買いましたが、高潔な人物だったと伝えられていることは確かです。

この怨霊伝説は、人を陥れると自責の念で潰れてしまう、それに対する戒めだと解釈するのが正しいと思われます。

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