雄略天皇は、先帝である第20代安康天皇が暗殺された、いわゆる眉輪の乱を鎮圧して即位した第21代天皇です。
雄略天皇に関しては、「大悪」と「有徳」を併せ持つという、興味深い話がいくつも残っています。
ここではその雄略天皇はどんな人物だったのか、ご紹介します。
血塗られた即位「大悪天皇」
日本書紀によれば、雄略天皇は、殺戮を重ねたことから「大悪天皇」と恐れられる一方、「有徳天皇」と敬われる面を持つ天皇です。
即位前に眉輪の乱といわれる、天皇継承にまつわる反乱を鎮圧しましたが、それは実の兄弟やそれに関わる人物をを討ち果たした末のできごとでした。
眉輪の乱の鎮圧に関しては先帝の仇討という明確な理由がありました。
しかし、その後従兄2人までを謀略によって討ったことに関しては、雄略天皇の酷薄さだけが伝わっています。
これには雄略天皇なりの理由があったとされています。
それは、複雑化し初めていた天皇の血筋(系統)です。
当時の大和政権にはいくつもの皇統があり、天皇を継承する際には常に皇位争いが絶えませんでした。
そのため雄略天皇は、自分とその後の皇位継承を見据えて殺戮を繰りかえすだけでなく、即位後も気に食わないことがあればすぐに斬るなどの暴君としての一面を見せたのではないかと言われています。
一言主神との遭遇「有徳天皇」
雄略天皇が葛城山に登った際に、天皇と全く同じ姿をした人間が表われました。
雄略天皇は、それが神であることを知りつつ名前を問いました。
その人物から「私は神である、先に王が名乗れ」と返事が来たので、雄略天皇は「幼武尊(ワカタケルノミコト)であると名乗りました。
すると相手は「一言主神である」と応じました。
こうして雄略天皇は神とともに、夕暮れまで狩りを楽しんで、一言主神は天皇を見送ったとされています。
神的な存在を認めて敬うという雄略天皇の敬虔な態度を見て、民が「有徳天皇」と称えたといわれています。
また、后妃に蚕を飼わせようと考え、臣下に全国から蚕を集めさせたところ、臣下は間違えて「蚕(こ)」ではなく「子(こ)」を集めて献上してしまいました。
天皇はこの勘違いを笑って、臣下に子供の養育を命じ、少子部(ちいさこべ)の姓を与えました。
また、蚕の生産に欠かせない桑の生産に適した土地を調べ、絹の生産率も高めたといわれています。
万葉集一番の雄略天皇の歌
このように大悪、有徳の両面が描かれているのは、雄略天皇が偉大な英雄と見られていたことを物語ります。
古代の英雄像は、スサノオノミコトやヤマトタケルのように、善悪の二面性を持つ姿で描かれているのが特徴だからです。
そしてもう一つの注目点は、有名な万葉集の冒頭歌は雄略天皇の詠んだ歌だということです。
万葉集は今から約1300年前に詠まれた、四千五百首ほどの歌をおさめた日本最古の歌集です。
原文は難解で長文なので、ここでは歌の意味だけ説明します。
「素敵な籠を持ってこの丘で野草を集める娘さん、貴女の家は?あなたの名前は?私はこの広大な国を治める者です、私は名乗りました。さぁ、あなたも名乗ってください、愛を受け入れてください」
なぜ雄略天皇の愛の歌が冒頭歌になったかについては、万葉集を編纂するうえで一番古い歌だったという説や、雄略天皇がこの時代の大和政権のなかで傑出した人物だったという説などがあげられていますが、いまだに真実は明らかになっていません。