蘇我氏を表舞台へ導いた宣化天皇、宣化天皇陵は皇后との夫婦合葬陵

第28代宣化天皇は、安閑天皇の次に即位した天皇で、安閑天皇の実弟です。

ここでは宣化天皇と、この後日本の歴史に大きく影響する有力豪族である蘇我氏との関りについてご紹介します。

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宣化天皇と蘇我氏の台頭

継体天皇の後の安閑天皇と宣化天皇は実在せず、継体天皇の崩御の後に欽明天皇が即位したとの説もありますが、ここでは宣化天皇が存在したという説に基づいて解説します。

宣化天皇の在位期間はわずか4年ほどでしたが、特筆すべきは蘇我稲目を大臣に抜擢したことだと伝えられています。

第26代継体天皇は、有力豪族である大伴氏や物部氏に擁立される形で即位したため、大伴氏や物部氏が重んじられていました。

ところが継体天皇の朝鮮半島政策に大伴氏物部氏が主導したことに反感を持った宣化天皇は、別の豪族である蘇我氏を起用したのです。

実際に両社の結びつきは深く、宣化天皇の皇居である檜隈廬入野宮(ひのくまのいおりののみや)は、曽我氏の勢力圏内である飛鳥に建てられていました。

以後蘇我氏は、大伴氏や物部氏を抑えて確実に勢力を伸ばしていくのです。

大宰府の前身の設置

宣化天皇のもう一つ注目すべき実績は、九州での磐井の乱の鎮圧後に大和政権が急襲支配を強めるために、統治の総括と言える形で、那津官家(なのつのみやけ)を設置したことです。

那津官家(なのつのみやけ)とは、筑前の那津に、九州統治と対外交渉、軍事の出先機関として設置されたものです。

これがのちの大宰府にあたり、九州における政治、経済、外交、軍事の拠点となりました。

これは当時、激動する東アジア情勢や常に気が抜けない九州の政治状況に、いかに大和政権が苦慮していたかを物語っていると言えます。

宣化天皇陵

宣化天皇陵は現在の奈良県橿原市にあり、陵名を「身狹桃花鳥坂上陵( むさのつきさかのえのみささぎ)」といいます。

遺跡名は「鳥屋ミサンザイ古墳」で、周囲に堀を巡らせた美しい形の前方後円墳です。

ミサンザイというのは、古墳に用いられる名称で、「ミサンザイ」は貴人の墓を意味する「ミササギ(陵)」が訛ったものだといわれています。

この御陵には、宣化天皇だけではなく、先に亡くなった皇后の橘皇女(たちばなのなかつひめみこ)との合葬陵です。

また孺子(わくご)という宮中に仕えた童も一緒に眠っているとされていると日本書紀には記載されていますが、当地の宮内庁制札には書いてありません。

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