推古天皇は蘇我馬子に操られていた?両者の関係は?

第33代推古天皇は、日本で初の女性天皇であり、聖徳太子を摂政として政治を行った人物です。

この時代は、推古天皇と聖徳太子そして蘇我馬子が政治を動かしていたとされています。

ここでは、推古天皇の政治と蘇我馬子との関係についてご紹介します。

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推古天皇が即位した背景

推古天皇の父は第29代欽明天皇で、推古天皇を含めた6人の兄弟がいます。

そして欽明天皇の没後、推古天皇の同母弟である用明天皇、そして末弟の崇峻天皇が順番に皇位を継いでいきます。

用明天皇が亡くなり崇峻天皇が即した際に、蘇我馬子は蘇我氏の興隆のために間接的に崇峻天皇を暗殺したといわれています。

この時に皇室に跡を継ぐ年齢の男子がおらず、次期天皇となる人物を見つけなければ皇統断絶になってしまいます。

そこで蘇我馬子は、自分の傀儡になって動いてくれそうな推古天皇に打診して、天皇の座に即位させました。

これで自分が思った通りに政治を動かせると思った蘇我馬子でしたが、推古天皇は蘇我馬子が思ったようなおとなしい女性ではありませんでした。

推古天皇は、美しく聡明な女性だったと伝わっており、用明天皇の忘れ形見である聖徳太子(厩戸皇子)を皇太子として、蘇我氏を牽制しました。

政治的には安定していた時期ではありますが、蘇我馬子にとっては操るつもりで即位させた推古天皇が思ったよりも有能だったため、目論みが外れたのではないかと考えられます。

推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子の三頭政治

仏教の保護、冠位十二階、憲法十七条など、現代の教科書にも載る聖徳太子の功績は目を見張るもので、日本国の礎を作ったといっても過言ではありません。

推古天皇の活躍よりも、聖徳太子の偉業が有名で、推古天皇個人の功績とは特に記載されていません。

しかし聖徳太子の能力を認め、補佐役として実務を任せた推古天皇も、素晴らしい洞察力や判断力を持っていたのではないかと考えられます。

こうして聖徳太子を皇太子とし、摂政に任命して国政を執らせ、大臣である蘇我馬子と三頭政治を展開していきました。

国内的には、冠位十二階で実力重視の人材登用を取り入れた官僚制度を確立したり、十七条憲法で役人の心構えを説いて王権の強化を図って、国の基本方針が固まりました。

国際的には遣隋使派遣によってさまざまな交流を図り、政治・文化を発展させました。

聖徳太子没後の蘇我馬子

聖徳太子は、推古天皇の後を継ぐはずでしたが若くして亡くなってしまいます。

推古天皇が当時にしては長寿(75歳没)だったということもあり、聖徳太子の方が先だってしまったのです。

聖徳太子が亡くなると、三頭体制のバランスが崩れて、次第に蘇我馬子が主導的立場をとるようになっていきます。

それでも推古天皇は、蘇我氏の勢力をうまく牽制していきました。

蘇我馬子が天皇家直轄領の葛城県を自らの本拠地としてその下賜を請うたのに対し、推古天皇は「この土地を与えたら、後世に悪名を残すことになる」として要求を拒否しています。

中継ぎ、そして豪族の傀儡として即位させられた推古天皇ですが、実際には大変有能な女性で、初の女帝として安定政権を維持して中央集権国家の礎を築いたのです。

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