第32代崇峻天皇は、蘇我馬子と炊屋姫(のちの推古天皇)に擁立されて即位し、臣下に暗殺された日本史上唯一の天皇とされています。
ここではその崇峻天皇と、その暗殺や時代背景についてご紹介します。
蘇我馬子に操られた崇峻天皇
丁未の乱で物部氏が滅亡し、朝廷では蘇我氏が絶大な影響力を持っていました。
蘇我氏に擁立された形で即位した崇峻天皇は、蘇我馬子の傀儡のような存在になり、自由に政治を行えない状態になってしまいました。
表面上は政治がスムーズに行われていたように見えますが、崇峻天皇はこのような境遇に不満を募らせるようになってきました。
日本書紀によると崇峻天皇暗殺までの経緯は、崇峻天皇が献上された猪を見て「この猪の頭を斬るように、気に食わない男の首も斬ってしまいたいものだ」と囁きました。
そしてその情報が蘇我馬子の耳に入りました。
そして崇峻天皇が近辺で兵を集めているという噂もあって、身の危険を感た蘇我馬子が先手を打ったものだといわれています。
蘇我馬子は知略に長けた人物で、計画は綿密に練られました。
東国から献上品があると偽って崇峻天皇を誘い出し、東漢直駒(ヤマトノアヤノアタイコマ)という人物に銘じて、天皇を暗殺してしまったのです。
そればかりか同年、実行犯である東漢直駒を、蘇我馬子の娘と密通していたとして処刑してしまうのです。
暗殺の意外な黒幕
東漢直駒処刑は口封じだったといわれていますが、崇峻天皇に対して危機感を募らせていた人物は他にも存在しました、それが炊屋姫(後の推古天皇)です。
炊屋姫は蘇我馬子とともに崇峻天皇の即位を推した一人でしたが、あくまで崇峻天皇は実子である竹田皇子の中継ぎとしか考えていませんでした。
その当時、竹田皇子はまだ即位できる年齢ではなかったのです。
そのため崇峻天皇が自分たちの傀儡から離れて主導権を握るようになると、竹田皇子の即位の可能性が消滅してしまう恐れがあるので、蘇我馬子に同調したのではないかといわれています。
また、崇峻天皇暗殺という事件は一大事件にも関わらず、朝廷の中は淡々と政務が行われたという記述も何かを示唆しています。
なので崇峻天皇の暗殺は、蘇我馬子だけでなく朝廷全体の意思もあったのではないかという説もあります。
一方で蘇我馬子が朝廷を動かせるくらいの権力を持っていた証拠、とも考えられます。
蘇我馬子と仏教信仰
当時の仏教信仰といえば聖徳太子が有名で、現代の歴史の教科書では、なぜか蘇我馬子の名前はあまり出てきません。
しかし、実は蘇我馬子こそ仏教を日本に普及させた功労者だったのです。
仏教信仰に反対していた物部氏を滅ぼした後、念願の仏教信仰を広め、日本初の本格寺院である飛鳥寺(法興寺)と四天王寺を建立しました。
飛鳥寺は、蘇我氏の氏寺である法興寺の後身です。
本尊は「飛鳥大仏」と呼ばれる釈迦如来で、日本最初の本格的な伽藍を備えた仏教寺院として、現代でも人気の高いお寺となっています。