敏達天皇の2人の妻、広姫と推古天皇にまつわる騒動とは

第30代敏達天皇は、第29代欽明天皇と第28代宣化天皇の皇女石姫との間に生まれました。

ここでは敏達天皇と、その二人の妻、広姫と推古天皇にまつわる話をご紹介します。

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敏達天皇時代の日本

敏達天皇は、先帝である欽明天皇の時代からの懸案事項、任那問題と仏教の是非などの問題を引き続き抱えていました。

敏達天皇は、父である欽明天皇の遺言である「汝は新羅を討って任那を復興させよ」の言葉通り、これに尽力しましたが結果は出せませんでした。

もう一つ、欽明天皇時代に日本に渡ってきた仏教の扱いにも苦慮しました。

敏達天皇は仏教に対して基本的には中立でしたが、「敏達記」で「仏法を信じることなく、文学・歴史を愛した」とされているように、本心では廃仏派だったのではないかといわれています。

この事柄に関して日本書紀では「天皇、仏法を信じず、文史を愛す」と記され、敏達14年に物部氏の進言を容れ「仏法を断めよ」と指示したとされています。

これは、敏達天皇が物部氏の進言によって決定したというニュアンスになり、排仏に関して主導権がなかったという捉え方ができます。

一方で古事記では、敏達天皇自ら破仏を命じたとあり、日本書紀では描かれていない敏達天皇の積極的な廃仏派の顔を見ることができます。

古来天皇は「八百万の神々の主祭者」であり、仏教はこの立場を揺るがす危険性があると考えたのではないかと考えられます。

結局敏達天皇は在位中、「仏法を禁断にせよ」という詔を発したものの、反対派の意見でまた容認したりと、仏教の受容に関して二転三転してきました。

広姫、推古天皇の二人の妃

敏達天皇の即位に際して、選ばれたのが最初の妃である広姫で、結婚した当時から病弱であったと伝えられています。

広姫は宣化天皇の孫にあたり、正当な血筋の持ち主でした。

後の推古天皇は、この時は敏達天応の庶妃の一人でした。

ところが敏達天皇は、広姫よりも後の推古天皇を寵愛したのです。

新しい宮を造り推古と移り住み、元の宮殿に弘姫と子どもを置き去りにした形にしてしまい、広姫は失意のうちに病死したとされています。

後の推古天皇は晴れて皇后になり8人の子を儲けましたが、本心から敏達天皇を愛していたのではない、との説もあります。

その根拠はいくつもありますが、敏達天皇が崩御した際にその実母、つまり推古にとって義母の母の墓に葬り、推古自分は早世した息子と同じ墓を望んだという話が残っています。

しかし、敏達天皇の崩御の際には、広姫の子である忍坂彦人大兄王の嫡男の田村王を後継としたとも伝えられています。

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