豪族出身の母を持つ第27代安閑天皇や、第28代宣化天皇と違い、仁賢天皇の皇女を第29代欽明天皇は母に持つ欽明天皇は、日本書紀に「嫡子」とされています。
ここではこの欽明天皇と、百済の聖明王、そして当時の朝鮮半島情勢についてご紹介します。
欽明天皇と朝鮮半島
「欽明天皇記」には、朝鮮関連の記事がほとんどを占めています。
欽明天皇の即位した時期に、新羅が急速に拡大を続け、任那を圧迫してきていることが一番の懸案事項だったと推測されます。
即位元年には早くも、諸臣たちと新羅征討について議論が交わされたとも記載されています。
その際に、任那割譲の責任と問われた大伴金村が、物部氏や蘇我氏から糾弾を受けて失脚します。
新羅征伐も物部氏らによる慎重な態度により進展せず、以降新羅に侵略された任那の復興と合わせて、新羅対策を百済の聖明王に託す形になりました。
しかし、百済の聖明王が新羅打倒を力説するも、朝鮮半島の日本府の役人の中には新羅に通じているものもいて、任那復興は一向に進まず、結果的に任那滅亡を早めることになってしまいました。
その後高句麗に攻められた百済は日本に救援を要請しましたが、日本府に無視されたため、新羅と結び高句麗を撃退しました。
そして日本が百済に援軍を出さないと踏んだ新羅は、今度は百済に攻め込んだのです。
百済は日本に救援を要請し続けましたが、とうとう聖明王は新羅の大群に包囲され討たれてしまいました。
聖明王と仏教
欽明天皇の時代のもう一つの特徴は、百済から釈迦仏像や教典などが献上され、仏教が伝わってきたことにあります。
聖明王も、日本の軍事援助の見返りとして釈迦像一体と経論などを献上しました。
そして、「仏教は素晴らしいもので、真の悟りを開くもの。今や仏教はアジア諸国に広まっているので、ぜひ日本でも伝えてほしい」という上表分も送られてきました。
仏像に対面した欽明天皇は、臣下たちに受容の可否を尋ねたところ、蘇我氏は他国に乗り遅れるわけにはいかないと賛成を唱えました。
ところが、物部氏と中臣氏は外国から渡来した神を祀れば、日本古来の神の祟りがあると反対しました。
欽明天皇はとりあえず蘇我氏の仏教礼拝を許しましたが、その翌年、各地で疫病が流行し多数の人々が犠牲になりました。
物部氏はこの原因を「渡来の神を拝んだため」として蘇我氏を非難、仏教の布教はここで一時中止となります。
これが長きにわたる崇仏派と廃仏派との、激しい争いに発展していったとされています。
当時すでに仏教は、渡来人によって少しずつ日本に入ってきていたとされていますが、公的に仏教が日本に伝わったのは、欽明天皇の時代だとされています。