第85代仲恭天皇は、承久の乱を起こした後鳥羽上皇の孫、そして順徳天皇の子です。
ここでは、時代の流れに振り回された仲恭天皇の生涯についてご紹介します。
仲恭天皇の即位と承久の乱
仲恭天皇は、第84代順徳天皇の第一皇子として誕生し、産まれてわずか1ヶ月で皇太子となりました。
仲恭天皇誕生のころ、祖父である後鳥羽上皇と父である順徳天皇は幕府に対して討伐計画を立てていました。
順徳天皇は、天皇の位のままでは様々な制約があると考え、仲恭天皇に皇位を譲ることにしました、仲恭天皇が4歳の時です。
この時、仲恭天皇の叔父の九条道家が、摂政として仲恭天皇の代わりに政治を行っていました。
1221年、後鳥羽上皇や順徳天皇によって鎌倉幕府に対し挙兵した、承久の乱が勃発します。
承久の乱は、北条政子による涙の訴えで結束した幕府側の勝利となり、後鳥羽上皇他数人の上皇が各地に配流となりました。
承久の乱後の仲恭天皇
承久の乱の際に仲恭天皇は、九条道家の九条邸に逃れましたが、朝廷側の敗北によって仲恭天皇は天皇の位から降ろされてしまいました。
在位期間はわずか70日あまりで、即位式なども行われないまま天皇の座から降ろされてしまったために、明治時代までは歴代天皇系図にも載ることがありませんでした。
ちなみに、在位期間70日というのは歴代天皇の中で最短です。
承久の乱で勝利した幕府はその支配を拡大させ、京都での天皇の見張り役として六波羅探題を設置し、政治は完全に幕府のものとなります。
仲恭天皇は、退位させられただけではなく廃位させられたことで「半帝」「九条廃帝」と呼ばれ、明治3年に第122代明治天皇によってようやく諡を得ました。
仲恭天皇は4歳で即位、在位70日ほどで廃位そして17歳で亡くなるまで生家である九条邸で隠棲していたため、諡号撰定の根拠にできる事績がありません。
諡号の撰定というのは、天皇の事績や住んでいた宮の場所などでで決定されるものなのです。
そのため明治政府は、天皇が第三子だったことから「仲」、そして敬う意味の「恭」を選定したとされています。
また、幼いという意味の「冲」を使うという案がありしたが、最終的には仲恭という名に落ち着いたという説もあります。
仲恭天皇が皇位を廃された後は、第80代高倉天皇の第二皇子である守貞親王の皇子、茂仁王(後堀河天皇)が即位しました。