第74代鳥羽天皇の妃の藤原璋子は、祖父である白河上皇の養子でした。
ここではこの時代の白河上皇の院政と、藤原璋子についてご紹介します。
第74代鳥羽天皇即位の経緯
鳥羽天皇は、誕生から7カ月で皇太子となり、先帝である堀河天皇が短命であったために5歳で天皇に即位しました。
幼い鳥羽天皇には政務を遂行することが不可能だったので、実際の成務は祖父である白河法皇が執りました。
先帝の堀河天皇の時代から、藤原氏による摂関政治は衰退していき、上皇や法皇が政治を行う「院政」が本格化しました。
このころの白河法皇は、「賀茂川の水と、双六の賽と、山法師だけは思うようにならない」と言ったという記録がありますが、それ以外は全部自分の思うままだ、というくらいの絶対的な権力を持っていました。
鳥羽天皇の時代にも藤原忠実という摂政がいたのですが、すでに立場が弱く、白河法皇が実質的に最高権者だったのです。
当然のことながら、鳥羽天皇の妃選びも白河法皇に決定力があります。
藤原璋子は、権大納言である藤原公実の娘で、7歳で父を亡くしたことから白河法皇の養女となり育てられました。
藤原璋子は絶世の美女だったと伝えられていて、様々な噂や、彼女を慕って詠まれた歌などが数多く存在しています。
鳥羽天皇と藤原璋子
藤原璋子は17歳で鳥羽天皇の元に入内し、その後天皇との間に5男2女をもうけます。
しかし、藤原璋子は以前から白河天皇との関係が噂されており、そのことは公然の秘密だったとされています。
白河法皇が関白の藤原忠実に璋子を嫁がせようとした際には、それだけはできないと忠実に断られ、そこで法皇と関白の間に亀裂が入ったという話も伝えられています。
鳥羽天皇と璋子の間に顕仁親王(のちの崇徳天皇)が誕生した時にも、「この子は祖父の子だから」と冷淡な態度でした。
そして絶対権力者だった白河法皇が没すると、すでに崇徳天皇に譲位した鳥羽上皇が権力を握るようになりました。
鳥羽上皇は、白河法皇の院政時代からの近臣の多くを馘首し、新しい体制を作っていきます。
それと同時に、璋子をも遠ざけるようになり、藤原得子という女性を入内させ、自ずと璋子との子である崇徳天皇との関係も微妙になっていきます。
鳥羽上皇と得子の間に男子が産まれると、その子をわずか3歳で近衛天皇として即位させます。
この事が鳥羽上皇と崇徳天皇との関係を悪化させ、その後保元・平治の乱に発展する火種となるのです。
鳥羽天皇と璋子は不本意な結婚だったにもかかわらず、たくさんの子を儲け、璋子が亡くなった時に鳥羽天皇は泣きながら仏具を打ち鳴らして悲しんだと伝えられています。
璋子自身、天皇家を騒がせた魔性の女とされていますが、自分の意志に関わらず運命に翻弄された悲劇の女性といっても過言ではないのではないかと思われます。