弟の顕宗天皇の後に皇位についた仁賢天皇、皇位継承の顛末は?祀られた神社は?

弟である第23代顕宗天皇の没後、皇位についたのは兄である第24代仁賢天皇です。

顕宗天皇と仁賢天皇と、祀られている神社についてご紹介します。

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目次

顕宗天皇と仁賢天皇

第17代履中天皇の正当な孫である顕宗天皇と仁賢天皇は、皇位継承争いの末に、父親である市辺押磐皇子が討たれるいう悲劇に見舞われていました。

そしてその際に播磨の国に逃げて、土地の豪族にかくまってもらったのです。

そして第22代清寧天皇に子ができず皇統断絶の危機に瀕した時に、この二人が播磨の国にいることがわかりました。

宮中に戻った二人は、まず弟の方が皇位につきましたが、3年という短い在位で、弟である顕宗天皇が崩御してしまったのです。

そして兄である仁賢天皇が跡を継ぎ、第24代天皇となりました。

顕宗天皇も仁賢天皇も、播磨での貧しい暮らしが長かったために、民衆の目線で政治を行うことができ、仁政を敷いたとされています。

仁賢天皇の皇后は春日大娘皇女という女性ですが、実は春日大娘皇女は父親を弑した雄略天皇の皇女なのです。

なぜこのような婚姻がなされたかというと、仁賢天皇が傍系の血筋であるために、直系の皇女を后に迎えて正当性を強めたのではないかと言われています。

古事記と日本書紀の扱いの違いについて

古事記では、この仁賢天皇から第33代の推古天皇の時代までの記述がほとんどありません。

しかし、日本書紀では様々な逸話が載せられています。

この違いは何なのでしょうか、これは古事記と日本書紀のコンセプトの違いだとされています。

当時の歴史観では、推古天皇以降は「現代」とされ、その前の10代あたりは「近代」という概念だったのではないかと言われています。

つまり、日本書紀は近代と現代に重きを置き、古事記は古代に重きを置いて書かれたもの、そして古事記は史記であり、エピソード的な物よりも事実を尊重していたのではないか、と考えられます。

顕宗天皇と仁賢天皇を祀る神社

神戸市西区に、顕宗仁賢神社(けんそうにんけんじんじゃ)という神社があります。

読んで字のごとく、顕宗天皇と仁賢天皇を祀った神社です。

この神社は、仁賢天皇が創建し、顕宗天皇と仁賢天皇を御祭神にしたといわれています。

拝殿の絵馬には現在でも、顕宗天皇と仁賢天皇の播磨潜伏時代の様子が描かれた絵が存在しています。

境内には古来より伝わる歌舞伎舞台があることでも有名で、江戸時代から明治時代にかけての歌舞伎の伝統を今に伝えています。

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