貴種流離譚の典型である顕宗天皇。貴種流離譚とは?顕宗天皇の政治は?

顕宗天皇は先帝である第22代清寧天皇の後を継いで即位した、第23代天皇です。

顕宗天皇は清寧天皇とは親子関係ではありません、この皇位継承の経緯や、貴種流離譚についてご紹介します。

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先帝清寧天皇には子がいなかった

第21代雄略天皇は、皇位継承争いを理由に第17代天皇の皇子であった 市辺押磐皇子を弑しました。

それだけでなく、天皇家の血筋である他の者まで亡き者にしたのです。

雄略天皇の皇子で、後継ぎとなった第22代清寧天皇に子がいなかったことで、皇統断絶の危機になりました。

ところが、雄略天皇に弑された市辺押磐皇子には皇子がいたのです。

雄略天皇の手から逃れるために、二人の皇子は播磨の国(今の兵庫県)の豪族にかくまってもらっていたのでした。

そして清寧天皇の時代、清寧天皇の臣下が播磨へ赴いた際に、土地の豪族の新築祝いに招待されました。

そこで歌舞を演じた兄弟である弟の弘計王が、自分たちの身分を歌によって明かしたのです。

それに驚いた臣下は二人を抱きしめ涙し、宮中に迎えたと伝えられています。

貴種流離譚とは?みつかった二人の皇子

貴種流離譚とは、文学や説話の悲劇的な類型で、神や年の若い貴人が他郷をさまよったり苦難に満ちた生活を送り、最後には英雄になったり尊い地位につくといったお話です。

子のいなかった清寧天皇が後継ぎに憂慮する中、二人の後継ぎ候補が見つかったということで、皇統断絶の危機は免れました。

清寧天皇が生前皇太子に立てたのは兄の億計王でしたが、実際に先に即位したのは弟の弘計王でした。

兄である億計王は、自ら身分を明かした勇気と才知を理由に弟に皇位を譲ると主張しましたが、弟もまた兄に譲ると主張したのです。

皇位を譲り合うのは、理想の天子像に謙譲の美徳が必要とされていたから、という理由もあります。

数年間の空白の後、弟である弘計王が第23代顕宗天皇(けんぞうてんのう)として即位しました。

顕宗天皇の政治

罪なくして弑された父を偲び丁重に弔い即位した顕宗天皇ですが、やはり自分たちを苦しめた政敵への恨みは残っていたようです。

播磨への逃亡中に、食料を強奪された人間の膝を切ったという逸話も残っています。

また、父を弑した雄略天皇の墓(陵)を、臣下に破壊させようとしましたが、兄に諫められて取りやめにしたという話も残っています。

しかし顕宗天皇は、播磨の国での貧しい生活が長かったため、民衆の目線の仁政を敷き、人々から有徳と言われたと伝えられています。

また、父の遺骨の場所を教えてくれた人物などへの恩返しも丁重に行ったとされています。

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