日本の第33代推古天皇は、第30代敏達天皇の妻で、女性初の天皇です。
ここではその推古天皇と、聖徳太子との関係についてご紹介します。
美人で賢かった推古天皇
推古天皇は、史書にも「顔かたち煌々しく」とある通り、とても美しく聡明な女性だったと伝えられています。
第32代崇峻天皇の暗殺に関わっていたと目される炊屋姫は、わが子の竹田皇子が即位年齢になるのを待っていました。
ところが竹田皇子が亡くなってしまったため、女性ながら皇族の長老的存在となっていた炊屋姫が推古天皇として即位したのです。
それには、この時期に次々と天皇が崩御して皇位を継承する人物が少なくなってしまったという理由もあり、推古天皇即位は蘇我馬子が推薦したともいわれています。
実際、推古天皇は女性ながら、どの天皇候補より人望もあり政治的能力も申し分なかったと伝えられています。
推古天皇と過去に政権の中枢にいた皇女たちとの決定的な違いは、推古天皇が巫女的役割ではなく、純粋に政治的手腕を見込まれたことだといえます。
そしてますます蘇我氏は、天皇家にとって大きな存在となるのです。
推古天皇と聖徳太子
聖徳太子(厩戸皇子)は、第31代用明天皇の子で、推古天皇の甥にあたります。
推古天皇は聖徳太子の能力を高く買い、皇太子として摂政に任じて国政を執らせました。
聖徳太子はお札の肖像になるくらいの有名人ですが、20歳で推古天皇の片腕になったほど、本当に有能な人物だったと伝えられています。
主な偉業としては「仏教の保護」「冠位十二階の制定」「十七条憲法の制定」「遣隋使」ですが、これは推古天皇からの絶大な信頼がなければ成し得なかったことだと思われます。
仏教を保護するにあたって、法興寺、法隆寺(斑鳩寺)を建立し、仏教によって民衆の心を安定させようとしました。
そんな聖徳太子ですが、若いころは武闘派だったようで、14歳だった太子は、頭に仏像を載せて自軍を鼓舞し、戦争を勝利に導いたという逸話も残っています。
推古天皇と聖徳太子の功績
「冠位十二階」は従来の氏姓(家柄)ではなく、実力重視の人材登用を取り入れた官僚政治です。
天皇に仕える役人を十二段階で格付けしたもので、血筋ではなく個人の能力を重視しました。
「十七条憲法」は国の基本方針を定め、役人たちの心得や道徳を説いたもので、天皇を中心とした国家づくりを図ろうとしたものです。
「遣隋使」は、当時の隋(今の中国)が日本を各下に見ていたため、小野妹子らを隋に派遣し、対等な外交を成立させました。
そしてそれは何度も行われ、多くの僧や留学生も隋に渡り中国に留まって研鑽に励み、帰国後日本に政治・文化の発展に寄与しました。
推古天皇の偉業は現在にも通じるものがあり、これらの政策により日本の国政が刷新されたと考えられます。