安閑天皇は、先帝の継体天皇の後を継いで第27代天皇として即位しました。
先帝の崩御から安閑天皇即位までの空白の二年間と、その御陵にまつわる話をご紹介します。
安閑天皇、即位までの二年間の空白の謎
日本書紀では、先帝である継体天皇の崩御の年と、安閑天皇の即位の年の間に二年間の空白が生じます。
この二年間というのは何を意味するのかについてはいまだに解明されていません、様々な説が存在します。
継体天皇が即位したのは66歳の時だといわれており、即位の時点でかなり高齢だったと思われます。
そしてわずか4年で崩御、次の安閑天皇に皇位を譲ることになります。
百済の史書である「百済本記」には、531年頃に天皇と太子と皇子が共に落命されたとの記載があります。
他の様々な史料と考え合わせると、継体天皇の次の天皇は第28代宣化天皇あるいは第29代欽明天皇なのではないか?などの説もあります。
また、継体天皇の崩御の後、安閑天皇と宣化天皇の朝廷と、第29代欽明天皇の朝廷が対立し、二つの朝廷が存在したのではないかともいわれています。
安閑天皇の実績
在位が短かかった安閑天皇については、ほとんどが屯倉の設置についての実績だけが語られています。
屯倉(みやけ)とは、大和政権の直轄地経営の倉庫と、直接経営の土地のことを指します。
屯倉は、直接経営して課税する地区や、直接経営ではないけれど課税をする地区など、管理の仕方や労働力は様々でした。
安閑天皇は屯倉の設置に力を入れ、特に関東より西の各地に多くの屯倉を設置し、その数は20個以上とされています。
屯倉はここから急速に広まり、これらは全て交通の要地に置かれているのが特徴で、大和政権の地方支配が確実に各地に浸透していたことがうかがわれます。
安閑天皇陵の出土品
大阪府羽曳野市にある高屋築山古墳(たかやつきやまこふん)が、安閑天皇陵です。
古墳の形状は前方後円墳で、古市古墳群の最南端に位置し、異母妹である神前(カムサキ)皇女との合葬とされています。
高屋築山古墳からは、大変珍しいガラスの円形切子碗が出土されました。
これは6世紀ごろのペルシア(今のイラン周辺)で作られたものと考えられていて、奈良の正倉院の白瑠璃碗と大きさや成分、デザインまでほぼ一致しています。
この時代には日本国内で、このようなガラス製品を作る技術はなかったので、ペルシアから中国、韓国と、シルクロードを通って日本に渡ったものとされています。
このガラス碗は、ペルシアで出土したものと比較しても上級のもので、国の重要文化財になっています。