第二代天皇の綏靖天皇にはいくつかの逸話が残されています。
綏靖天皇は、日本書紀では神渟名川耳天皇(かんぬなかわみみのすめらみこと)、古事記では神沼河耳命という諡号です。
国を作った神武天皇ならいざ知らず、なぜ綏靖天皇にいくつもの逸話が残っているのでしょうか。
そして皇居のあった場所などにもいくつかの謎が残っています。
綏靖天皇が皇位についた経緯
父親である神武天皇が崩御した際に、一番に皇位を継承することを希望したのは手研耳命(たぎしみみのみこと)という、綏靖天皇にとっての異母兄でした。
手研耳命は年長で政治の経験もありましたが、権威を振りかざすような性格で、綏靖天皇ら異母弟達を討って皇位を得ようとしました。
その陰謀を知った綏靖天皇たちは、手研耳命の寝所に忍び込み、手研耳命を逆に討って第二代天皇に即位したと伝えられています。
この時に、ともに手研耳命を討とうとした兄の神八井耳命が恐怖で手が震えて矢を射ることができなかったので、綏靖天皇が手研耳命を討ったという説もあります。
また、襲われたところを返り討ちにしたとの話もあります。
いずれにせよ、武力で皇位を得たという話が有力です。
綏靖天皇の皇居はどこに?
綏靖天皇の皇居は、奈良県御所市にある葛城高丘宮(かずらきのたかおかのみや)と言われています。
ところが鳥取県北栄町の蜘ヶ家山(葛城山)も綏靖天皇の皇居だったと伝えられています。
ちなみに皇居の名称は、日本書紀では葛城高丘宮、古事記では葛城高岡宮と記載されています。
このことに関してはどちらが正しいのか判断する材料に乏しく、また現在どちらにも由緒正しい神社がある事から、あえてこちらが正しいというような判断はしないという姿勢です。
皇居跡の二つの神社
奈良県の葛城高丘宮の近くには葛城一言主神社という神社があり、周辺には古事記にまつわる史跡などが存在します。
そこには「葛城高丘宮阯碑」が建てられています。
鳥取県北栄町の蜘ヶ家山(葛城山)の岡神社も、葛城高岡宮の跡とされています。
こちらには「高丘宮跡(神宮の芝)」という石碑が存在しており、仁徳天皇の皇后、磐之媛の故郷ともきされています。
どちらも街中ではなく山地にあり、派手さはありませんが昔から地域の人から大切にされている神社です。
どちらが本物かというよりも、両方に皇居を構えていた、あるいは途中で移転したという可能性も考えられます。
当時は神武天皇が大和後の地に落ち着いて間もない時期だったこともあり、各地の豪族との争いも多かったので、政治基盤もしっかりしていなかったという解釈もされています。