懿徳天皇(いとくてんのう)は、日本の第4代天皇です。
3代目天皇の安寧天皇の第二皇子、在位期間が約33年間であること以外、具体的なことはほとんどわかっていません。
ここでは、懿徳天皇陵や、懿徳天皇の「懿」の文字の意味についてご紹介します。
懿徳天皇陵
懿徳天皇陵は、神武天皇陵や安寧天皇陵などに近い、奈良県橿原市西池尻町丸山にあります。
畝傍山南麓の歩道を抜けて少し南へ行くと、畝傍山南纖沙渓上陵があります。
それが第4代天皇である懿徳天皇陵です。
御陵付近は丸山古墳といわれる円墳などがあったとされ、このあたりの自然の地形をうまく利用して立地されています。
また、現在でもこの辺りから土器の破片などが発掘されているようで、これからもっと歴史的な価値のあるものが発掘されれば、古代史の解明に役立つのではないかと思われます。
古代天皇の名前の意味
二代目天皇「綏靖天皇(すいぜい)」は綏も靖も、安らぐこと、安んずることになります。
三代目天皇「安寧天皇(あんねい)」も、読んで字のごとく、無事で安らかな事をさします。
どちらも国の安寧を祈って名付けられたと推測されますが、懿徳天皇になると少し趣が変わってきます。
懿徳天皇の「懿」は、広いという意味です。
なので、懿徳は「徳が広い」という解釈になります。
初代天皇の神武天皇が九州から今の奈良県にへ東征し、大和の国の礎を築いて、綏靖天皇、安寧天皇の時代に国を安定させました。
そして次に、徳の広い人物によって国を発展させる時期に来た、単純に解釈するとこういうことになります。
「古今和歌集」には、懿徳天皇が出雲に行幸して素戔嗚尊(スサノオノミコト)に出会ったという逸話も残っています。
懿徳天皇の「懿」の文字
先述したように、懿徳天皇の「懿」という字は広いという意味です。
そしてその文字を使った著明な人物は、三国志に登場する「司馬懿」だけです。
司馬懿は、後漢末期に生まれ三国時代曹魏にかけて活躍した軍師です。
かの有名な諸葛孔明のライバルとも言われ、頭もよく戦闘にも長けた人物だったと言われています。
もちろん懿徳天皇の時代は、今のように諸外国と簡単に行き来できる時代ではありません。
当然のことではあるのですが、このころの日本と中国が密接な関係にあり、漢字が日本に伝わったという事実があらためて確認されます。
漠然と理解している事実が、こういう側面から垣間見れるというのが、歴史の面白さの一つといえるでしょう。