綏靖天皇は、初代天皇である神武天皇の次に即位した2代目天皇で「すいぜいてんのう」と読みます。
日本書紀に綏靖天皇関しての興味深い記述がいくつかありますので、いくつかご紹介します。
二代目天皇である綏靖天皇
綏靖天皇は、初代天皇の神武天皇の皇子です。
在位は、紀元前581年2月23日から紀元前549年6月28日と言われています。
綏靖天皇は神武天皇と共に大和に東征を行ったとも言われており、神武天皇が崩御した後に、政治の知識の豊富な兄に討たれそうになりました。
それを自分で返り討ちにしたという説と、もう一人の狙われた弟が返り討ちにしてそれを恥じて神に仕えたので、綏靖天皇が皇位についたという説など多種存在します。
業績については特に記録されておらず、日本書紀では84歳、古事記では45歳までの生涯とされています。
綏靖の「綏」「靖」両方とも安らかという意味を持ち、「綏靖」で安らかに落ち着くという意味になります。
欠史八代について
古事記や日本書紀には、二代綏靖天皇から九代開化天皇までの記述がほとんどありません。
これを欠史八代といって、この8人の天皇の存在自体を疑問視する説があります。
なぜかというと、系譜は存在するけれど業績や朝廷に関する話が載っていないことが原因です。
しかし、なぜこの八人だけ歴史から削除したのか、削除するならなぜ系譜や名前だけは残したのかなど、現在でもいろいろな謎が残っていて結論は出ていません。
そしてさらに不思議なことに、後の世で台頭する豪族の多くがこの間の天皇を祖としていることです。
その中には有名な安倍氏、曽我氏なども含まれます。
綏靖天皇の恐ろしい伝説
綏靖天皇に関しては恐ろしい伝説が残っています。
それはなんと食人伝説です。
朝夕に7人の人間を食べていたというもので、周囲の人間が恐怖で「火の雨が降ってくる」などと嘘をつき、綏靖天皇を岩屋に隠れるように勧めて幽閉したなどの話も残っています。
ただしこれは古事記や日本書紀ではなく、かなり後の南北朝時代に編纂された「神道集」に載っているものです。
南北朝時代はかなり後になりますので、この話は史実ではなく物語の類だという可能性が高いと言えます。
また、どう考えてもこれが史実であるとも思えないのですが、体が大きかったとか、粗暴であったからなどが、こういう比喩になったのではないかとも言われています。