安寧天皇は、二代目天皇綏靖天皇の皇子で、第三代に数えられる大和朝廷の天皇です。
二代綏靖天皇から九代開化天皇までは、都や御陵の場所や系譜だけが存在し実績は何も残されていないことから、存在自体を疑われています。
これがいわゆる「欠史八代」といわれるもので、今回はその欠史八代についても簡単にご紹介します。
歴史の空白、欠史八代
欠史八代の天皇は下記の8人です。
・2代 綏靖天皇(すいぜいてんのう)
・3代 安寧天皇(あんねいてんのう)
・4代 懿徳天皇(いとくてんのう)
・5代 孝昭天皇(こうしょうてんのう)
・6代 孝安天皇(こうあんてんのう)
・7代 孝霊天皇(こうれいてんのう)
・8代 孝元天皇(こうげんてんのう)
・9代 開化天皇(かいかてんおう)
いずれの天皇も、系譜や子の名前、墓の場所の記述は存在しますが、実績が全く記されていません。
この8人の天皇、あるいはその間の時代を欠史八代といいます。
現代の歴史学ではこれらの8人の天皇達は実在せず、後の世で創造されたものという見解がとられていますが、反対意見である生存説も根強く残っています。
また初代天皇の神武天皇も後世のねつ造で、第10代天皇である祟神(すじん)天皇」こそが実在第一号だという説もあります。
歴史学者によって見解も大きく異なっており、様々な根拠が存在するのですが、いまだ結論には至らず確固たる証拠でも発掘されない限り結論は出ないものと思われます。
3代天皇、安寧天皇陵
安寧天皇に関しての情報は、現代ではほとんど残っていません。
日本書紀によれば、父である綏靖天皇の崩御で即位したというだけで、生年や没年に関しても不明です。
安寧天皇陵は、現在の奈良県橿原市吉田町にあります。
古墳の形式は山形、俗称は「アネイ山」です。
御陵名は、畝傍山西南御陰井上陵といい、「うねびやまのひつじさるのみほどのいのえのみささぎ」と読みます。
存在自体を疑われる安寧天皇ですが、立派な御陵が畝傍山西に佇んでいます。
畝傍山西南御陰井上陵という名の由来とされる「御陰井」という古井戸が、御陵から南の集落に残されています。
畝傍山は大和三山のうちで一番高い山ですが、標高はわずか199mで、ハイキング登山ができる山です。
安寧天皇陵はその登山口の近くにありますので、畝傍山登山の際に立ち寄る方も多くみられます。
実績はないのに御陵(古墳)が存在する謎
上記のように、安寧天皇を含む8人の天皇は、実績がまるで記されていないにも関わらず、系譜や墓の記述だけはしっかりとなされています。
欠史八代に関しては諸説あって、存在しなかった、創造という説の一つの根拠に「在位期間や寿命が以上に長すぎる」ということがあげられています。
しかし、それとは逆に、創作したのならもっと信ぴょう性の高いものにしたのではないか?という説も根強く残っています。
つまり、架空の天皇を捏造するのであれば、もっと自然な寿命や在位期間を設定したはずということです。
8人の天皇は存在したが、その間に誰も即位していない時期があったのではないか、または、天皇家以外の人間が政治を行っていた時期があったのではないかなど、色々な可能性が考えられます。
そう考えると、天皇陵(古墳)が残っているという事実とも反することがありません。