本居宣長も訪れた安寧天皇ゆかりの神社は、風光明媚な奈良県の吉田町に

安寧天皇は日本の第三代天皇で、存在自体が疑われることもありますが、天皇陵やゆかりの神社は存在します。

ここでは安寧天皇の簡単な紹介と、ゆかりの神社についてご紹介します。

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欠史八代の一人、安寧天皇

初代天皇の皇子は二代目の天皇綏靖天皇です。

その皇子が三代目の天皇である、安寧天皇になります。

天皇家の系譜において、二代目から九代目天皇の8人の存在が疑わしいということで「欠史八代」といわれています。

系譜や墓所などは存在するのに、生年や没年、政治的な実績は一つも伝わっていないことが理由です。

安寧天皇に関しても、簡単な系譜と在位期間が38年、57歳没(古事記には49歳とされる)という記述しか残っておらず、実績については何も伝わっていません。

安寧天皇ゆかりの神社

安寧天皇陵は、奈良県橿原市吉田町の畝傍山西南御陰井上陵(うねびやまのひつじさるのみほどのいのえのみささぎ)にあります。

近くに位置する安寧天皇神社は、畝傍山の南にあり、三方を山に囲まれたマナゴ谷の中央、懿徳天皇畝傍山南繊沙渓上陵の南面にある拝所から山道を歩きます。

その先に第三代天皇である安寧天皇を祀る小さな神社が鎮座します。

昭和37年版「橿原市史」によると、天正3年(1575)の畝傍山古図に、この神社がアネ山頂上に描かれていて、その後現在地に移転したといいます。

アネ山といううのはマナゴ谷の隣にあり、現在ではそこに安寧天皇陵がある場所です。

しかしそれにも諸説あり、江戸中期以前の天皇陵と神社の位置関係はいまだにはっきりと解明されていません。

小さな丘の上にひっそりと建つ神社ではありますが、鬱蒼とした森の中の神域に古代の空気を感じることができる場所です。

本居宣長と安寧神社

本居宣長は、江戸時代の国学者であり、医師です。

古事記の研究に取り組んで、約35年を費やして「古事記伝」を編纂しました。

古事記伝は、古事記研究の集大成である古事記の注釈書です。

その本居宣長は安永元年に吉野飛鳥を旅して、「菅笠日記」という紀行文(日記)を書きました。

その菅笠日記に、安寧天皇陵やその周辺についての記述があります。

菅笠日記によると、

本居宣長たちが吉田町に来ると、老人が出てきてこの辺りを案内してくれた。

御陵についてとても詳しかったが、それは幕府が御陵の調査をし修復を始めたからだという。

京都から大勢の役人がやってきて、御陵の標しを立てたり、周囲を垣で囲ったりしている。

それでその老人は、御陵について詳しくなったという。

と記されています。

そして初代から4代の天皇陵や神社を巡るのですが、当時はあまり整備されておらず見つからなかった御陵もあるという記述もあります。

この辺りに散在する古墳などを実際に巡って、畝傍山のどの場所に古墳があるのかなどを、後に古事記伝を編纂する時に活かしたのは言うまでもありません。

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