第64代円融天皇が即位した時代は、摂関家である藤原氏が天皇選定に大きく介入していました。
先帝である冷泉天皇から円融天皇、そして次の花山天皇時代の、藤原氏の摂政関白争いについてご紹介します。
摂関家である藤原北家
藤原氏の起源は飛鳥時代の大化の改新の立役者の中臣鎌足で、その功労から中大兄皇子から死ぬ間際に藤原の姓をもらいました。
その後藤原鎌足の子、藤原不比等の子孫だけが藤原姓を名乗ってもよいとされ、その不比等の四人の息子たちが「南家」「北家」「式家」「京家」という家系に分かれたのです。
北家の始祖である藤原房前から数えて五代目の藤原良房は、人臣で初めて摂政になり、その養子の藤原基経が日本で初めて関白に位につきました。
そして藤原北家の中でも特に摂政・関白を世襲する家系を「摂関家」と呼びます。
円融天皇は11歳で即位し、大叔父である太政大臣藤原実頼が摂政に就任し、実頼が没した後は天皇の外舅である藤原伊尹が摂政を引き継ぎました。
しかし数年後藤原伊尹も亡くなり、その後藤原家の中で関白の職、そして誰を天皇として即位させるかを巡る熾烈な争いが始まります。
円融天皇は、亡母の遺訓の通り藤原兼通を関白に任命し、兼通の娘の詮子を女御としました。
当時は子孫を残すためもあり一夫多妻が普通で、正式な伴侶は皇后、そして後から皇后になった女性を中宮といいます。
皇后・中宮の下には、女御・御息所・更衣・女院などが存在します。
藤原詮子は、女御として円融天皇の下に入内しました。
藤原兼家と詮子の野望
初めに子を産んだのは先に入内した遵子ではなく詮子だったのですが、円融天皇は詮子ではなく遵子を正式に皇后にしました。
詮子は、第一皇子の母である自分が皇后になれなかったことと、遵子の立后の際に遵子の兄に言われた無礼な言葉で、東三条邸に籠ったとされています。
その後円融天皇は、藤原伊尹の娘である女御懐子の子、師貞親王(のちの花山天皇)に天皇の位を譲位し、詮子の子である懐仁親王を皇太子としました。
詮子は一応皇太子の母となったのですが、花山天皇が若くして即位したためにいつ懐仁親王が天皇になれるかわかりません。
そのころ、花山天皇は寵愛していた女御に先立たれて気を落としていました。
そこで藤原兼家と詮子は、それを利用しようと画策します。
藤原兼家の息子である道兼は花山天皇に、一緒に出家しようと内裏から連れ出し、天皇が出家したのを確認して自分は戻ってきてしまうのです。
花山天皇が騙されたと気がついた時にはすでに、三種の神器は懐仁親王の手に渡っており、その後一条天皇として即位するのです。
そして詮子は皇太后となり、一条天皇の祖父として摂政になった兼家とともに絶大な権力を持つことになりました。
兼家の没後には、詮子の兄の道隆が摂政を引き継ぎ、詮子は落飾(出家すること)しましたが「東三条院」という院号を授かり、上皇並みの待遇となりました。
関白となった詮子の息子道隆が亡くなった後、詮子は一条天皇に強く働きかけて、道隆の息子である道長に関白を継がせることを約束させました。
こうして藤原道長による藤原氏全盛の基礎ができ上ったのです。