清和源氏のルーツである清和天皇時代におきた大地震について

第56代清和天皇は、先帝の文徳天皇の第四皇子であり、母は太政大臣・藤原良房の娘の明子です。

清和天皇がわずか9歳で即位した背景と、この時代に起きた大地震、そして源氏との関係についてご紹介します。

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藤原家の思惑で即位した清和天皇

清和天皇は、父である文徳天皇が即位して4日目に生まれ、当時朝廷で権力をふるっていた藤原義房の後押しで、生後8カ月で皇太子になりました。

清和天皇にとって藤原良房は、母方の祖父になります。

そして文徳天皇が崩御した際、清和天皇はわずか9歳で即位し、後見人となった藤原良房が実権を握る形になりました。

その頃藤原良房は太政大臣の職に就いていたので、摂政にはなっていませんでしたが、応天門の変という事件を鎮圧したことで、藤原良房を摂政にせざるを得なくなってしまうのです。

応天門の変とは、天皇の宮にほど近い応天門が、何者かによって放火された事件です。

犯人捜しのための取り調べが進む中、古くからの名族だった大伴氏(伴氏)と紀氏の人物に疑いがかかり処刑されました。

この事件は結果的に、藤原氏以外の名族の勢力を落とすことになったので、藤原良房の陰謀だったのではないかという説が有力です。

清和天皇は、表向き「犯人を捕らえて処刑した」良房に摂政の位を与えないわけにはいかなくなるのです。

子が多かった清和天皇、源氏のルーツ

清和天皇は27歳の若さで天皇を降りて陽成天皇(清和天皇の子)に譲位してしまいます。

そして上皇となった清和天皇は、その3年後に出家して仏門に入ってしまいました。

清和天皇は数多くの皇子、皇女に恵まれ、何人かの皇子が「源」の姓をもらって臣下に降りました。

このように皇族の身分から臣下に降りることを「臣籍降下」といい、そこからまた「○○源氏」という系統に枝分かれするのです。

こうして清和天皇の皇子が臣籍降下して「清和源氏」が生まれました。

ちなみに源頼朝の清和源氏はは、清和天皇の孫である「経基王」が源姓をもらったことに始まり、平清盛の平氏は桓武平氏といい、桓武天皇の曾孫の「高望王」が平の姓を貰ったことが始まりとなります。

天災が頻発した清和天皇の時代

即位している期間が短かった清和天皇ですが、即位期間中驚くほど天災が頻発しました。

富士山噴火、その後大干ばつが起こり、鳥海山、阿蘇山の噴火、京都で群発地震、そして1000年に一度の貞観地震津波。

そして天災ではありませんが、毎年のように飢饉や疫病が蔓延しました。

科学的に地震は、誘発されて新たな地震が起きる可能性が高く、地震で土地が荒れ、そして飢饉や疫病が蔓延するということが考えられますが、当時は天変地異は天皇の責任と考えられていました。

それが原因で、清和天皇は若くして天皇を皇太子に譲ったとも考えられます。

それでも清和天皇はこの天災の数々を歴史書に記載して、後世への史料として残しました。

短い天皇時代の中でも清和天皇は、法律書や歴史書の編纂で人民を思い、最期には自分の葬儀を簡単なものにするように言い残したとされる、隠れた名君だったのではないかと思われます。

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