元明天皇と藤原不比等の後世に残る政治的実績とは

第43代天皇言明天皇は、天智天皇の皇女であり、持統天皇とは異母姉妹です。

ここではその元明天皇を助けて、藤原不比等が行った様々な政治的実績をご紹介します。

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藤原不比等という人物と平城京遷都

藤原不比等は藤原鎌足(中臣鎌足)の子で、朝廷で政治力を発揮してその後の藤原家の繁栄の基礎を築いた人物です。

また父である鎌足に賜った藤原の姓を、自分の子孫にのみに継承するために、他の士族の姓を中臣に戻したともいわれています。

元明天皇の時代に藤原不比等が中心となって、都を藤原京から平城京に遷します。

平城京遷都の目的は、藤原京が狭くなったから、新しい律令国家を作るため、または地の利が悪かったなど様々な説がありますが、はっきりとした理由はいまだに不明です。

そして不比等が平城京に移した興福寺は、現代でも世界遺産にも登録されている貴重な建築物です。

藤原不比等に関しての逸話はほとんど残っていないのですが、「竹取物語」に登場する、かぐや姫へ求婚する候補者の一人の「車持皇子」のモデルが藤原不比等だという説があります。

不比等の母方の姓が「車持(くらもち)」ということが由来していると思われます。

また、名前の「不比等」は役職名である「史(ふひと)部」に由来するといわれ、後に「比べて並ぶ者がいない」、それほど優秀だったという意味で字があてられたといわれています。

大宝律令と養老律令

大宝律令は、日本における律令政治の実現を目指して藤原不比等らの手によって編纂されました。

「律」は刑法、「令」は行政法、民法に当たります。

大宝律令は大宝令11巻と大宝律6巻でなり、文武天皇によって諸国に領布された、日本初の律と令が成立した本格的な律令です。

これは唐の律令を参考にしたと考えられていますが、編纂するにあたって日本の国情を考えて作られています。

そして成立17年後に、元明天皇の後を継いだ元正天皇が不比等に大宝律令の補足と改定を命じ、養老律令の編集作業に取り掛かりましたが、途中で不比等は病死してしまいます。

元正天皇とは元明天皇の皇女で、元明天皇の皇太子が若かったため譲位を受けて即位した、独身で即位した初の女性天皇です。

これは歴代天皇の中で、唯一母から娘に皇位継承した例です。

後に藤原仲麻呂の主導により、編集が中断していた新律令が施行されました、これが養老律令です。

藤原不比等とその息子の藤原四兄弟によって、藤原氏の最初の黄金期が作られたと言っても過言ではありません。

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