平城天皇と嵯峨天皇の間に起きた薬子の乱、主役の女性薬子とは?

桓武天皇の子で、桓武天皇崩御の後に即位したのが第51代平城天皇です。

病のために在位はたった3年だった平城天皇と、皇位継承問題に関わる薬子の乱(薬子の変)についてご紹介します。

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平城天皇と藤原薬子

平城天皇は、父親である桓武天皇のように指揮能力のある人物ではなく神経質だったとも伝えられていますが、即位当時は意欲的に政治に取り組んだという話も残っています。

藤原薬子は中納言藤原縄主の妻で、長女が平城天皇の宮女となり、それに伴って宮仕えをするようになりました。

やがて娘を差し置いて、薬子自身が平城天皇と深い関係になってしまい桓武天皇の怒りにふれました。

桓武天皇は薬子を東宮から追放しますが、桓武天皇が崩御すると平城天皇は再び薬子を呼び戻しました。

薬子の夫である中納言縄主を大宰帥として九州に遠ざけ、薬子は平城天皇の寵愛を一身に受け、政治にまで介入するようになります。

そして兄である藤原仲成とともに専横を極めるようになり、人々から恨みを買いました。

平城天皇、たった3年での譲位の背景

桓武天皇の後に皇位についた平城天皇でしたが、そこには皇位継承争いがありました。

それは、叔父であり、本来平城天皇の代わりに天皇に即位するはずだった早良親王が政変に巻き込まれて亡くなったことがありました。

また平城天皇は、兄弟である伊予親王を皇位を簒奪しようとしたとして排除したのでした。

平城天皇は病のため3年で天皇を譲位したとされていますが、自ら葬った早良親王と伊予親王の怨霊に取りつかれ病になったという説があります。

怨霊ではなく、自分のしたことに対する罪の意識が病気を引き起こしたとも考えられます。

そして在位3年で、弟である神野親王(のちの嵯峨天皇)に譲位して、平城天皇は上皇となり旧都である平城京に移り住みました。

二所朝廷と薬子の乱

この時代は、上皇にも政治に関与する権利がありました。

平城京に移った平城上皇は、嵯峨天皇のやり方にことごとく不満を持ち始めます。

そして藤原薬子は、平城天皇の側近として権力を持ち続けたかったので、嵯峨天皇への譲位には反対でした。

そして平城上皇が天皇に返り咲くことを目論む藤原薬子と、その兄である藤原仲成は嵯峨天皇と平城上皇との対立に油を注ぐのです。

嵯峨天皇と平城上皇、この二か所で対立していたこの時期の朝廷を二所朝廷といいます。

平城上皇は嵯峨天皇に譲位した翌年、ついに嵯峨天皇を無視して平城京へ遷都するとの詔勅を発しました。

それを冷静に受けた嵯峨天皇は、歴戦の強者である坂上田村麻呂らを平城京に向かわせ包囲しました。

平城上皇も兵を集め反撃しようとしましたが、嵯峨天皇に関所を封じられ、逃亡を阻止されて降伏しました。

結果平城上皇は出家して政界から追放され、藤原薬子は自害します。

これが薬子の乱と呼ばれるものですが、乱そのものよりも、この乱によって天皇と上皇の二重構造制度が終わり、嵯峨天皇によって最高権力を天皇に一本化されたことに大きな意味があります。

薬子の乱によって天皇と上皇の関係が正しく整理され、これまで国を乱していた原因の一つが解決されました。

ちなみに嵯峨天皇は、退位した後に嵯峨院に隠居することで、自ら政務から離れ、政治に介入することはしませんでした。

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