第99代後亀山天皇は、50年以上続いた南北朝の争いに終止符を打った天皇です。
ここではこの後亀山天皇と、南北朝合一となった「明徳の和約」についてご紹介します。
強硬派だった長慶天皇と、穏健派の後亀山天皇
後亀山天皇は、第97代後村上天皇の第二皇子として誕生し、先帝である第98代長慶天皇の弟に当たります。
兄である長慶天皇は、あくまで南朝が正当だという主張を元に、北朝に対して徹底抗戦の構えでした。
しかし、有力武将が亡くなっていったことで南朝は次第に劣勢になっていきます。
そして即位した後亀山天皇は、室町幕府と和平を結ぶ方が得策だとして、その方向で話を進めます。
そして南朝内でも、南朝方の有力武将である楠木正義が裏切ったことをきっかけに、南北朝の和平への機運が高まっていきました。
その頃、室町幕府は3代目将軍の足利義満によって安定した政治が行われていました。
足利義満は南北朝の和議と皇位継承について、後亀山天皇に四つの条件を提示しました、これが明徳の和約です。
1、北朝の後小松天皇に譲位し、神器を引き渡すこと
2、皇位は両統迭立とすること
3、国衙領を大覚寺統の領地とすること
4、長講堂領を持明院統の領地とすること
後亀山天皇はこれを了承し、1392年に南北朝が統合され南朝が滅亡しました。
明徳の和約、その後
明徳の和約は、優勢だった室町幕府側の北朝が、衰退していた南朝を吸収合併した形でした。
南朝の後亀山天皇としてみれば、本当に実行されるのか不安でしたが、受け入れるしかない状況でした。
明徳の和約の中でも、一番重要なのは皇位後継者の交代に関する取り決めでした。
ところが、この明徳の和約を提示したのは3第将軍足利義満でしたが、義満から将軍を引き継いだ足利義持の代になり、この和約が反故にされてしまうのです。
後亀山天皇から譲位された北朝の後小松天皇が、その第一皇子である躬仁皇子を即位させようとするのです。
後亀山上皇は何度も抗議するのですが聞き入れられず、大覚寺から大和の吉野へ出奔してしまいます。
表向きには生活の困窮ということになっていましたが、これは後亀山天皇の幕府への抗議だと考えられます。
吉野への出奔から6年後、後亀山上皇は京都へ戻りましたが、その後失意のまま享年75歳で崩御しました。
その失意と無念の最期にふさわしく、後亀山天皇が亡くなった夜は激しい雷雨だったという伝承が残っています。
そしてこの南北朝合一の後に誕生した反幕府の勢力を「後南朝」と呼び、後亀山上皇の無念は後の世まで引き継がれていくのです。