第70代後冷泉天皇の時代は、栄華を極めた藤原氏に少しずつ陰りが見え始めた時代です。
この時代に起きた前九年の役と、弱体化していく藤原氏についてご説明します。
後冷泉天皇とは
後冷泉天皇は、先帝である後朱雀天皇の第一皇子で、母は、太政大臣・藤原道長の娘の藤原嬉子という、藤原氏の血を濃く受け継いだ天皇です。
後冷泉天皇自身、藤原道長の外孫にあたるのです。
当時は後冷泉天皇の叔父、藤原頼通が関白として権勢をふるっていた時期でした。
藤原道長が娘を天皇家に嫁がせるという婚姻策が成功したおかげで、藤原頼通が摂関を長期間努めることができたのです。
後冷泉天皇は、政務のほとんどを藤原頼通に委ね、蹴鞠や歌合せに興じていたと伝えられています。
前九年の役とその影響
1051年におきた前九年の役の舞台は、奥六郡(今でいう岩手県付近)で、当時はこの辺りから北を蝦夷と呼び、朝廷の統治が及ばない地域でした。
その蝦夷への対策として、奥六郡の統治を任されたのが安倍氏です。
年代的に、奥六郡の統治を任命されたのは安倍忠良ですが、前九年の役はその息子の安倍頼良の時代に起きた大規模な反乱のことです。
それを平定したのは、陸奥守に任命された源頼義でした。
源軍は途中大惨敗を喫したこともありましたが、出羽で勢力を張っていた清原光頼の援軍などによって、阿部氏を滅ぼしました。
安倍氏を滅ぼした源頼義は、東国に源氏の勢力を広げました。
後に日本の歴史のキーマンになる源頼朝も、この河内源氏の子孫です。
そしてこの戦いに援軍を出した清原光頼は、阿部氏が統治していた陸奥を与えられ、陸奥国と出羽国という広大な地域を統治するようになりました。
後冷泉天皇の継承問題
後冷泉天皇は子供がいなかったので、弟である尊仁親王を皇太子としたかったのですが、これが藤原家にとって都合の悪いことだったのです。
それは、尊仁親王の母が藤原氏でないということです。
尊仁親王が若くして即位した場合、補佐役としての摂政を置かなければいけないのですが、天皇の近親者でないと摂政になれないのです。
つまり、尊仁親王が即位したら摂政となるのは藤原氏ではなく、皇族の誰かになるということです。
しかも、後冷泉天皇は荘園整理令に着手し、今まで特別扱いしていた藤原氏にも届け出を要求するようになります。
しかしその反面、藤原氏のような優秀な側近は天皇家には必要なのも確かです。
なので後冷泉天皇は、尊仁親王が天皇になった場合も藤原頼通を摂関として続投させることにしました。
しかし、尊仁親王が後三条天皇として即位し、頼通が83歳で亡くなったのとほぼ同時期に、姉の彰子・弟の教通も亡くなって、道長の子供達の中で権勢を誇っていた人物がいなくなります。
こうして、頼通に子女がいなかったことも大きく影響して、藤原氏による摂関政治が弱体化していくのです。