第71代後三条天皇は、摂関家であった藤原氏を外戚としない天皇です。
この後三条天皇のとった院政と、善政とされた延久の荘園整理令についてご紹介します。
後三条天皇の即位の経緯
後三条天皇の即位に対して、当時の摂政だった藤原頼通は初めから反感を持っていました。
それは、後三条天皇が先帝である後冷泉天皇の弟にあたり、藤原氏に子がいなかった事から、藤原家の娘を天皇に嫁がせることができなかったからです。
つまりこの先、藤原氏は摂関家として朝廷に介入することができなくなるのです。
頼通から疎まれていた後三条天皇は、即位してしばらくの間は不遇の時代を過ごしました。
しかし、同じ藤原氏の中でも今まで軽んじされていた藤原能信という人物が、即位前の後三条天皇をを守り立てていたのです。
藤原能信は尊仁親王(のちの後三条天皇)の後見人になる事で、藤原頼通に敵対することになりました。
藤原能信は、養子にしていた決して身分の高くない藤原茂子という人物を尊仁親王に嫁がせます。
しかし藤原能信は残念ながら、後三条天皇の即位前に亡くなってしまいました。
後三条天皇は即位した時に、今まで自分を冷遇していた人々に報復人事をすることなく、能力がある者であれば過去のことは気にせずに重要な役職につけたといわれています。
このように後三条天皇は、若いころより聡明で、政治姿勢も公明正大な人物だったと伝えられています。
延久の荘園整理令とは
後三条天皇による荘園整理は、これまでにはない本格的なもので、今まで目をつぶっていた大寺院や有力貴族にまで徹底してメスを入れました。
また後三条天皇は「宜旨枡」という規格化された枡を用い、国司が農民から米などを徴収する時の不正をなくしました。
後に、豊臣秀吉が太閤検地で全国の収穫量の調査に、枡の統一が行われています。
税の徴収が正しく行われるにあたって重要な枡の統一は、後三条天皇の大きな功績の一つだと言われています。
天皇主体で荘園を整理し、物価統制などの政策を積極的に実施できたのは、外戚に藤原氏を持たない後三条天皇だからこそだったからと考えられます。
息子への譲位と院政の始まり
1068年に即位した後三条天皇は、わずか4年で息子の白河天皇に譲位します、その時後三条天皇は39歳、白河天皇は20歳でした。
後三条天皇はまだまだ若く、政治も精力的に改革している途中ですが、なぜこの時期に白河天皇に譲位したのか、現在でも謎が残っています。
後三条天皇は譲位した翌年に病によって亡くなっているので、自分の健康状態が悪くならないうちに譲位をしたとも考えられます。
また、自ら上皇になり天皇を補佐することで、摂関家が政治に介入することを防ぐ目的で院政というものを考えたともいわれています。
いずれにせよ、後三条天皇の4年間という短い治世は、100年以上続いた摂関政治の衰退や、大規模な税制改革、そして院政の始まりなど、時代の転換期になった事は間違いありません。